二、東白川村の仏教
宮代妙観寺(みやしろみょうかんじ)
五加宮代の石戸(いわと)神社社殿のある一帯を字(あざ)妙観寺といいます。この字名は、中世期に存在した「妙観寺」という寺院の名が伝えられたものと思われます。田の中に一段高くなった畑があります。ここが妙観寺があったとされるところです。
妙観寺の創建の年代は分かりません。真言宗の寺であったとも、天台宗の寺であったともいわれますが、修験道の寺院であったもののようです。
『旧東白川村誌』(大正3年発刊)に掲載されているこの寺の由来を現代文にするとおよそ次のようになります。
妙観寺の創建の年代は分かりません。真言宗の寺であったとも、天台宗の寺であったともいわれますが、修験道の寺院であったもののようです。
『旧東白川村誌』(大正3年発刊)に掲載されているこの寺の由来を現代文にするとおよそ次のようになります。
宮代村に住む妙観寺常清入道政近という者は、僧の身で武家に仕官し、兼山(かねやま)の城主森武蔵守長一(もりむさしのかみながかず)の家臣となって当地に居住した。
もともと伊勢平氏(いせへいし)の子孫で伊勢神戸友盛(かんべとももり)の遠縁にあたる。文明のころは安江中務尉基政入道光安(やすえなかつかさのじょうもとまさにゅうどうみつやす)と称する者がこのあたりを知行(ちぎょう)したそうである。
かの妙観寺も光安の末族(ばつぞく)で安江と号した。慶長五年、石田治部少輔三成(いしだじぶしょうゆうみつなり)の反逆で、関ヶ原合戦において戦死し、あとは断絶した。
妙観寺は、文明年中から慶長5年までおよそ200年(註 実際は130年余りである)この地に居住した。しかし、政近の前七代の鈎書(かぎがき)を焼失したので、常清入道政近から記した。
もともと伊勢平氏(いせへいし)の子孫で伊勢神戸友盛(かんべとももり)の遠縁にあたる。文明のころは安江中務尉基政入道光安(やすえなかつかさのじょうもとまさにゅうどうみつやす)と称する者がこのあたりを知行(ちぎょう)したそうである。
かの妙観寺も光安の末族(ばつぞく)で安江と号した。慶長五年、石田治部少輔三成(いしだじぶしょうゆうみつなり)の反逆で、関ヶ原合戦において戦死し、あとは断絶した。
妙観寺は、文明年中から慶長5年までおよそ200年(註 実際は130年余りである)この地に居住した。しかし、政近の前七代の鈎書(かぎがき)を焼失したので、常清入道政近から記した。
初代 | 安江政近 |
---|---|
2代 | 孫左衛門(弥) |
3代 | 孫左衛門(弥) |
4代 | 孫左衛門(弥) |
5代 | 八藏 |
6代 | 甚藏(岡) |
7代 | 甚七郎(玄) |
8代 | 嘉七郎 |
9代 | 忠右衛門 |
10代 | 忠兵衛 |
11代 | 儀兵衛(喜) |
このほか、妙観寺の名は柏本八幡宮(現五加神社)の明応(めいおう)4年(1495)の再建棟札や弘治(こうじ)2年(1556)の上葺棟札にも見られます。また、元石戸神社が天正(てんしょう)2年(1574)に妙観寺が願主となって再建されています。このことは妙観寺がこれら神社の別当(べっとう)を兼ねていたものと考えられます。
天正17年(1589)の『下野村検地帳』(五加纐纈泰郎(こうけつやすろう)氏蔵)によると、当時妙観寺が所有していた農地は、水田が四反九畝余り、畑が四反三畝ほどと記載されています。宮代村の分が不明なのが残念ですが、おそらく下野村の分以上の寺領を所有していたものと思われます。
戦乱期には妙観寺は寺院というよりも土地の土豪的存在だったようで、前述した由来記にも「僧の身で武家に仕官し」とあり、このことを伺うことができます。
慶長5年(1600)、入道政近は関ヶ原合戦で戦死しましたが、このとき彼がどの陣営に属していたかは定かではありません。当時この地方の戦況は、小原(おばら)の城主遠藤慶隆(えんどうよしたか)が東軍に属し、犬地の城主小八郎胤直が西軍に属していました。『郡上郡史』によりますと「慶隆は小原が要害でないことを考え、最初に佐見(さみ)の吉田(よしだ)に堡砦(ほさい)を築いてここに拠(たてこも)り、守兵を宮代の妙観寺、坂本(さかもと)にも配して、上ヶ根(胤直方砦)に対し、互いに小競合(こぜりあ)いを繰り返した」と伝えています。妙観寺が焼失したのは、あるいはこの時のことではなかったでしょうか。
この寺の本尊であったとされる薬師如来像が、その末裔である某家に安置されている以外に妙観寺を偲(しの)ぶ何ものも存在しません。
天正17年(1589)の『下野村検地帳』(五加纐纈泰郎(こうけつやすろう)氏蔵)によると、当時妙観寺が所有していた農地は、水田が四反九畝余り、畑が四反三畝ほどと記載されています。宮代村の分が不明なのが残念ですが、おそらく下野村の分以上の寺領を所有していたものと思われます。
戦乱期には妙観寺は寺院というよりも土地の土豪的存在だったようで、前述した由来記にも「僧の身で武家に仕官し」とあり、このことを伺うことができます。
慶長5年(1600)、入道政近は関ヶ原合戦で戦死しましたが、このとき彼がどの陣営に属していたかは定かではありません。当時この地方の戦況は、小原(おばら)の城主遠藤慶隆(えんどうよしたか)が東軍に属し、犬地の城主小八郎胤直が西軍に属していました。『郡上郡史』によりますと「慶隆は小原が要害でないことを考え、最初に佐見(さみ)の吉田(よしだ)に堡砦(ほさい)を築いてここに拠(たてこも)り、守兵を宮代の妙観寺、坂本(さかもと)にも配して、上ヶ根(胤直方砦)に対し、互いに小競合(こぜりあ)いを繰り返した」と伝えています。妙観寺が焼失したのは、あるいはこの時のことではなかったでしょうか。
この寺の本尊であったとされる薬師如来像が、その末裔である某家に安置されている以外に妙観寺を偲(しの)ぶ何ものも存在しません。