十二、ゆかりの仏像仏具
西国三十三所観世音菩薩像
廃仏毀釈当時の所在地 | 茶菴堂(ちゃやんど) 濃州加茂郡神土村神付(じんづき) (東白川村神土神付) (廃仏毀釈当時の所在地が茶菴堂であると特定する資料には乏しいが、安楽寺の案内書や村雲蔵多の「明治三年見聞録」などにより、茶菴堂とする。) |
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現所在地 | 臨済宗妙心寺派 吉祥山(きっしょうざん) 安楽(あんらく)(禅)寺 岐阜県加茂郡坂祝(さかほぎ)町大針31番地の1 |
形式形状 | 木造 金箔(きんぱく)張り 像高 立像 約80センチメートル 座像 約40センチメートル |
数量 | 33体 |
銘文及び年代 | 宝暦(ほうれき)9年(1759) (安楽寺案内書によると、33体のうちの1体にのみ書かれているが、他には銘がない。) (村雲蔵多の「明治三年見聞録」には、「寛延(かんえい)元年(1748)西国三十三所を迎え安置する也」とある。) |
作者 | 不詳 |
寛延元年、神付の茶菴堂に迎えられ、村びとの信仰の的となった西国三十三所観世音菩薩像が、どのような経路を辿って坂祝の安楽寺まで運ばれたかは詳(つまび)らかではありません、が、一体として漏れることなく、そして全部の観音像が完全無傷のままで安楽寺に移されました。
村雲蔵多の「明治三年見聞録」には、「當村にても壱組に付壱ヶ処宛は観音地蔵弘法等を迎へ、堂を造り、むかしより納め来り候處なれども、今君(藩主)より早々取りはらへと被申候事ゆへ、同月(明治三年八月)廿七日頃より、一統取除にかゝり候。同神付組の儀も茶菴堂に納め有之候地蔵はじめ、三十三番の観音薬師弘法大師の像等有之候処、取除候得共、誰預るといふ人なくして、三躰(たい)づゝ割合(わりあい)、組中へ預り申し候」とあります。
神付組の管理下にあった茶菴堂も廃仏毀釈の嵐をまぬがれることはできず、すべてを除去しなければならない運命となりました。後難を恐れて仏像を預かる人がなかったので、神付組の人たちで3体ずつ割り合って預かりました。
永い間、護持し続けてきた大切な仏像です。村びとの菩堤寺安泰山常楽寺と宗派が同一である安楽寺の所在する地を選んで大切に運んだのも縁(えにし)というものでしょう。
運び込まれた三十三所観世音菩薩像は、一時寺屋敷地内に保管されましたが、当時の吉祥山安楽寺住職文啓和尚の手によって本堂東側に観音堂が建築され、安置されました。時に明治三年の暮れのことでした。
以来、安楽寺の本尊聖観音菩薩と共に地元住民の信仰の的となっています。
村雲蔵多の「明治三年見聞録」には、「當村にても壱組に付壱ヶ処宛は観音地蔵弘法等を迎へ、堂を造り、むかしより納め来り候處なれども、今君(藩主)より早々取りはらへと被申候事ゆへ、同月(明治三年八月)廿七日頃より、一統取除にかゝり候。同神付組の儀も茶菴堂に納め有之候地蔵はじめ、三十三番の観音薬師弘法大師の像等有之候処、取除候得共、誰預るといふ人なくして、三躰(たい)づゝ割合(わりあい)、組中へ預り申し候」とあります。
神付組の管理下にあった茶菴堂も廃仏毀釈の嵐をまぬがれることはできず、すべてを除去しなければならない運命となりました。後難を恐れて仏像を預かる人がなかったので、神付組の人たちで3体ずつ割り合って預かりました。
永い間、護持し続けてきた大切な仏像です。村びとの菩堤寺安泰山常楽寺と宗派が同一である安楽寺の所在する地を選んで大切に運んだのも縁(えにし)というものでしょう。
運び込まれた三十三所観世音菩薩像は、一時寺屋敷地内に保管されましたが、当時の吉祥山安楽寺住職文啓和尚の手によって本堂東側に観音堂が建築され、安置されました。時に明治三年の暮れのことでした。
以来、安楽寺の本尊聖観音菩薩と共に地元住民の信仰の的となっています。