一、ああ 夢多きふるさと
「麗(うる)はしき藍碧(らんぺき)の空に紺青(こんぜう)の山鮮かに匂ふ東白川(ひがししらかわ)の風光は、朝(あした)に好く、畫(ひる)に好く、夕べに好く、夜にも好く、春夏秋冬を通じて暖かい自然の夢に抱(いだ)かれて居(を)る。」
大正8年、岐阜日々新聞社の一記者がはじめて東白川村を訪れ、村の風光明媚(ふうこうめいび)な自然と人心の和やかさに驚嘆しました。
そのころは、岐阜から下麻生(しもあそう)まで自動車が通っていたようで、おそらく記者は下麻生までは自動車、それから村までは歩いて来たものと思います。
そして辿(たど)り着いた東白川村で記者が見たものは、当時としてはかなり発展した村の姿でした。養蚕、林業、白川茶、銅山など生き生きした産業があり、日向座(ひよもざ)、神田座(かんだざ)、相生座(あいおいざ)という3つの劇場があり、理想の教育が行われており、電灯事業の計画が緒(ちょ)についており、その上、山水の美を誇る情緒豊な自然と「柳暗花明(りうあんくわめい)の下(もと))より洩(も)れ來る絃歌(げんか)さんざめくを聞」く街の繁盛振りなど、記者を驚かせたのです。
この記者のルポをもとに岐阜日々新聞は、大正8年5月1日、「東白川發展號」と題して4ページにわたる特集をしました。
その柱となった記事にしばらく東白川村のよき時代を振り返ってみたいと思います。
大正8年、岐阜日々新聞社の一記者がはじめて東白川村を訪れ、村の風光明媚(ふうこうめいび)な自然と人心の和やかさに驚嘆しました。
そのころは、岐阜から下麻生(しもあそう)まで自動車が通っていたようで、おそらく記者は下麻生までは自動車、それから村までは歩いて来たものと思います。
そして辿(たど)り着いた東白川村で記者が見たものは、当時としてはかなり発展した村の姿でした。養蚕、林業、白川茶、銅山など生き生きした産業があり、日向座(ひよもざ)、神田座(かんだざ)、相生座(あいおいざ)という3つの劇場があり、理想の教育が行われており、電灯事業の計画が緒(ちょ)についており、その上、山水の美を誇る情緒豊な自然と「柳暗花明(りうあんくわめい)の下(もと))より洩(も)れ來る絃歌(げんか)さんざめくを聞」く街の繁盛振りなど、記者を驚かせたのです。
この記者のルポをもとに岐阜日々新聞は、大正8年5月1日、「東白川發展號」と題して4ページにわたる特集をしました。
その柱となった記事にしばらく東白川村のよき時代を振り返ってみたいと思います。
大自然の美に富む
風光秀麗の絶勝地
東濃加茂郡東白川村
大自然の美に抱擁さる山紫水明の地たる東濃加茂郡東白川村は岐阜市より東十九里、飛騨街道筋下麻生町より中央線中津町に通ずる要路に當(あた)り、北に尾城山(おしろやま)の峻嶺峙(そばだ)ち、南に寒陽氣山(かんやうきやま)、捨薙山(すてなぎやま)の山嶽(さんがく)聳(そび)え、兩連山相對峙(あひたいじ)して頗(すこぶ)る偉觀(いかん)を極め、深山幽谷(しんざんゆうこく)より流れ出づる白川は北より南に走り中央を流る。
水勢滔々(すゐせいとうとう)として箭(や)よりも早く、永(とこ)しへの奮鬪(ふんとう)より來(きた)りて、永久(とこしな)の奮鬪に入り水勢鏘々(すゐせいせうせう)到る所に雄大なる造化の傑作を描く。
時や將(まさ)に新緑滴(したた)らんとして(はつらつ)の氣(き)、滿天滿地(まんてんまんち)に漲り、新葉若葉に風薫る四山の風光、げに筆舌の及ぶ所にあらず。
想ひ浮ぶ人皇第四十四代元正天皇(ぐわんせいてんわう)の御代より月日の小車(おぐるま)は流れ流れて八百六十有餘年彼の豐大閤秀吉公の砌(みぎ)り、郡上の城主遠藤大隅守胤基氏(ゑんどうおほすみのかみたねもとし)が領たりし往事を追懐(つひかい)せば、坐(そぞ)ろ人をして轉(うた)た過去を偲ばしむるものあらんか。吁々(ああ)、年も逝き、人も逝き、動ける萬象(ばんせう)、悉(ことごと)く逝きて、猶も残れるは山河のみおゝ歴史が語る悠々たる東白川の山河よ。
此の清麗(せいれい)なる山水の郷土史を按(あん)ずるに、太古時代既に白川は、豐魚(ほうぎょ)にして沿岸亦(また)農耕の利ありしを以て、人の住み居りしものゝ如(ごと)く、現今に到るまで往々、東白川の山麓(さんろく)より石器の現れ出づるを見も想像に難(かた)からず。
然りと謂へ共往古の歴史は詳かならず。昔、加茂郡河東郷白川(かもぐんかわひがしがうしらかわ)の莊と云ひ、後白川の郷と云ふ。何人の所領たりしや不明なりしも天正(てんせう)より慶長年間(けいてうねんかん)まで郡上領たりし、同城主胤基氏(たねもとし)より遠藤小八郎胤直(ゑんどうこはちらうたねなほ)に到所領歿收せらるゝに及び苗木城主遠山久兵衛友政(なへぎぜうしゅとほやまきうべゑともまさ)の領となり、維新に到るまで苗木藩領(なへぎはんれう)たり。
本村内氏性中「安江(やすえ)」を性(せい)とする者多し。其源(そのみなもと)は平重盛(たいらのしげもり)なりとか此の後胤(こういん)たる平政氏(たいらのまさうじ)、伊勢杉谷より起り、濃州岩村に暫く止りたる後東白川村に居(きょ)を定む。政氏(まさうじ)の祖平盛高(たいらのもりたか)は加州安江郷(かしうやすえがう)にて安江氏(やすえし)を稱す。此の故に、政氏の子孫世々「安江」を名乗りしならん。
天正年間(てんせうねんかん)檢地(けんち)ありしも、當時は人煙極めて稀(まれ)なりき。而して東白川村は元、神土(かんど)村、越原(おっぱら)村、五加(ごか)村の三ヶ村に分れ居りしを明治二十二年町村制實施に際し合併して一ヶ村となれり。
爾來(じらい)歳月と共に進展し、現今人口實に四千六百餘、戸數八百餘を有し、東西三里二十一丁、南北二里十八丁に及ぶ。
白川(しらかは)に沿う平坦地は農作物豐熟(ほうじゅく)し米麥茶を産す。茶は香味可良、白川茶(しらかはちゃ)の名夙(つと)に聞ゆ。
又桑の栽培盛に行はれ養蠶業(やうざんげふ)は糸價好况の爲め益々隆盛の域に達し、蠶種(さんしゅ)亦優良種を製出す。生糸は東白川村に於る産物の最たるものにして之れ又年々、異數の發展に向ひつゝあるは國富増進上祝福す可く、林業は村内に八ヶ所の精材工場在りて、板類並に建築用材の移出多く、木炭の製造又盛なり。白川炭(しらかはずみ)の名高し。
畜産に到りては白川駒(しらかはごま)として聞ゆ。之れ亦良駒(れうごま)の名あり。
全村を行政上今三區に分つ。越原區(おっぱらく)は惠那郡加子母(かしも)村に接し東南には新巣山御料林(しんすやまごれうりん)の千古斧鉞の入らざるあり。區の中央には村社越原神社(そんしゃおっぱらじんじゃ)あり。本郷(ほんがう)に越原尋常小學校(おっぱらじんぜうせうがくかう)、大明神(だいめうじん)に其の分教場あり。
神土區(かんどく)は村の中央にして大字平(おほあざたひら)に市街地をなし商賈(せうこ)軒を並べ、市况活氣を呈し居れり。東白川村役場、東白川郵便局、神土尋常高等小學校、巡査駐在所、蠶病豫防事務所東白川出張所(さんべうよぼうじむしょひがししらかはしゅってうじょ)、神土種付所等あり。街の北に郷社神田神社(がうしゃかんだじんじゃ)ありて、境内老樹枝を交へ、日光を洩さず荘嚴を極む。
神土區(かんどく)に南接する五加區(ごかく)は白川茶の本場にして下野(しもの)に銅山あり。宮代(みやしろ)に五加尋常小學校(ごかじんぜうせうがくかう)、柏本(かしもと)に村社柏本神社(そんしゃかしもとじんじゃ)あり。
其の他當村の娯樂場として越原(おっぱら)に日向座(ひよもざ)、神土(かんど)に神田座(かんだざ)、五加(ごか)に相生座(あひおいざ)の三劇場あり。
加ふるに今や大正の開けゆく御代に全村民の心理状態一新して、行政に産業に、教育に、全く理想の域に向ひ、更に時代の要求として文明の風は彼重疉(てうぜう)たる千山萬岳(せんざんばんがく)を越えて吹き來り、電燈事業の計畫さへあり、親しく當村を目堵(もくと)したる吾人(ごじん)は其の一大發展を遂げ居る事實を見て、驚奇(けうき)の目を張りしものを、切に當局に向って東白川村の爲め一は國家福利の進展上一日も速に公衆電話の設置されん事を懇望に堪へざるなり。
若し夫れ、山水の美に誇る東白川の情調を語らんか、一輪の明月冴え渡る夜月影淡き白川河畔に一歩を踏めよ。夫れよ、柳暗花明の下より洩れ來る絃歌(げんか)さんざめくを聞き、その身の全く美しき繪巻物の如き夢路を辿(たど)るの思ひを湧かさしむ可く、花柳界の繁昌又以て街の殷賑(ゐんしん)を測るに足らん。
あゝ此の山清き水麗はしき自然の大景に支配さるゝ東白川の郷土は、春夏秋冬を通じて、夢の如き山水美に抱かれ居るを以て、一面遊覧地として、別莊地として最も好適なる歡樂(かんらく)の地と云ふ可く。その春は、清き流れの白川に沿ふ山麓一帶の岩躑躅(いはつつじ)が紅く燃えて水に映り、夜は石を洗ふ水瀬の響き一つ一つに河鹿(かじか)の聲(こゑ)さへ添ゆ。その夏は暑さを知らぬ白川溪(しらかはだに)の緑は珠を溶かして水に流るゝ静けさよ。その秋は滿山の紅葉赫(か)っと燃えて火焔(くわえん)の山かと思はるゝ燦爛(さんらん)の美よその冬は繽粉(ひんぷん)たる白雪の淨衣(ぜうい)に包まれたる氣高き四山の風色よ。
東白川は眞(しん)に自然美の最も勝たるもの。例へ俗物が如何に入り込むとも、此の山水を俗化する事能はざらん。再び云ふ。東白川は天下の絶景たり。永久に、不變に。その山容(さんよう)に水態(すゐたい)、ともすれば伊豆の修善寺に似たる哉。
未だ、(きてき)の音、車輛の響を聞かざるも、岐阜市より下麻生町まで自動車の通へるあり。白川街道又大に改修され交通の便開け居るを以て飛騨縱貫鐵道にして飛騨川沿岸たる下麻生町より西白川村天神橋畔の對岸に出でんか。當地方に於ける天惠の産物並に自然の寳庫は一大開發の緒に就かん。此の際、早くも東白川村に於ける先覺者は、何れも自奮して决起す。
吾人又最近親しく、此の大自然の美に抱擁さるゝ東白川の地を踏みしを以て、聊か茲に其の見聞を掲げ、特に發展號を輯(しう)し以て滿天下に紹介の勞を執り、併せて東白川全村民が、今や新機運に向って猛烈なる努力を試みつゝある向上心と更に人情美の濃厚なるに對し、切に其の前途に光あれかしと祈るものなり。(陽生)
古き時代の活気に満ちた東白川村の姿をこの一文から察することができます。
その東白川村はもともと仏教の村でした。神土には常楽寺(じょうらくじ)があり、五加には蟠龍寺(ばんりゅうじ)がありました。
それが明治3年に急に神道だけになってしまいました。いわゆる廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が断行されて仏教が無くなったのです。資料の中から、東白川村における廃仏毀釈がどのように行われ神道への改宗がどのように進められたかを探ってみたいと思います。
その東白川村はもともと仏教の村でした。神土には常楽寺(じょうらくじ)があり、五加には蟠龍寺(ばんりゅうじ)がありました。
それが明治3年に急に神道だけになってしまいました。いわゆる廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が断行されて仏教が無くなったのです。資料の中から、東白川村における廃仏毀釈がどのように行われ神道への改宗がどのように進められたかを探ってみたいと思います。