六、四つ割の南無阿弥陀仏碑
涙の四つ割り
明治3年(1870)、苗木藩が強行した廃仏毀釈の嵐はこの塔にも及びました。藩役人から「名号塔を壊せ」という命令が出ると、急拠、高遠村へ飛脚が飛びました。駆けつけたのは、この塔の製作者傳蔵でした。「粉々に砕け」という藩命に傳蔵は、「わたしは苗木藩の者ではない。高遠の石工だ。仏の顔を踏みにじるようなことはできない」といって、鏨(たがね)を打ち込みました。傳蔵は涙と汗にまみれて鎚をふるいました。そして、節理に従って4つに割ったのです。
傳蔵には高遠石工の意地があったでしょうし、仏に対する敬虔(けいけん)な気持ちも人一倍だったでしょう。また、後世に期する何かがあったかも知れません。 割られた4つの石塊は、近くの「おくら(神戸正弥宅)」の畑の積石や裏の池の脇石などとして名号の文字が見えないように伏せ込まれました。また、台石は現在の役場前広場の東南隅の角石とされました。
こうして、事件は過去の語り草として、いつしか人々の記憶から遠ざかっていきました。
傳蔵には高遠石工の意地があったでしょうし、仏に対する敬虔(けいけん)な気持ちも人一倍だったでしょう。また、後世に期する何かがあったかも知れません。 割られた4つの石塊は、近くの「おくら(神戸正弥宅)」の畑の積石や裏の池の脇石などとして名号の文字が見えないように伏せ込まれました。また、台石は現在の役場前広場の東南隅の角石とされました。
こうして、事件は過去の語り草として、いつしか人々の記憶から遠ざかっていきました。