八、その明くる年
廃仏毀釈という人の心を180度転換する改革が徹底的に進められた明治3年も暮れて、翌明治4年の正月が静かに明けました。村雲蔵多は『明治四年諸事記録』の中で、
正月は例年の通り1日から3日まで休日。年始の祝儀の贈答は一切致しません。門松もなるべく小さなものにするよう言い付けられています。その他の飾り付けは『平田御邸行事書』にしたがい、いろいろ工夫しました。
これまでは、元旦の朝早く隣家へ年始のあいさつに行きましたが、今年はまず早朝産土神へ参詣しました。
神酒をいただいた後、名主方へ新年の御祝儀を申し上げて帰り、そのあとで隣家や親戚へ年始のごあいさつに回りました。
門松は、去年までは3日の夕方倒し、15日に片付けるようにしていましたが、今年は、15日まで立てておくように言われていますので、そのようにしました。16日には例年のように神田神社で五穀豊饒を祈願する祭りがあり、氏子が参拝しました。
と書いています。質素ではあったが、落ち着いた年の初めであったようです。
小学校は正月6日から始まりました。
3月15日には苗木本学校で祭礼があり、平田学の門人となっている人たちが2泊3日の日程で参詣しました。苗木では見世物も多く、相撲の興行なども行われました。
廃仏毀釈の後処理は年を越えても、まだ少しは残っていたようです。神付の茶菴堂(ちゃやんど)にあった観音などは、既に尾張国宮田村(現江南市宮田町)へ売却されましたが、現品は運び出されないまま、神付の人たちの家に預けられていました。それが3月の中ごろ、代金と引き換えに運び出されました。村雲蔵多の家にあった掛け物などの仏具もこのとき売却されました。
廃仏毀釈の状況視察は藩の重要な仕事で、3月13日には青山大参事と石原定安大参事が揃って管内を巡察しました。農業に精を出し、孝養を尽くしている者に褒美を与えたりしました。 3月25日には神田神社で神武天皇の御霊祭が営まれました。この祭には有本村佐見新田の人たちも残らず参拝しました。
この年、枝宮、枝社など小さな宮は大きな神社に合併が進められました。享保の山論で斬首された2人の霊は、神付の神森神社の若宮として境谷に祀ってありました。場所が離れていて都合が悪いので、この際、神森神社に合併しようとしたところ、これは尊い神の社へ人の霊を併せ祀ることは甚だ宜しくないと、別に山の神の古祠を安置して祀ることになりました。
神森神社、越原村越護神社などが、例年6月14日に行っていた提灯祭は取り止めました。
廃仏毀釈前は七月盆といっていた7月14日、15日、16日の3日間の休日は廃止し、替わりに御霊祭りといって7月1日、2日、3日を休日としました。
これは正月は神を祭ることを第一とし、七月は先祖の御霊を祭ることを第一とする考え方をはっきりさせたものです。
各神社の秋祭は、神楽やしし舞が奉納され、例年以上に盛大でした。
こうして、廃仏毀釈という一大事変は、時間の経過とともに落ち着きを見せていきました。
小学校は正月6日から始まりました。
3月15日には苗木本学校で祭礼があり、平田学の門人となっている人たちが2泊3日の日程で参詣しました。苗木では見世物も多く、相撲の興行なども行われました。
廃仏毀釈の後処理は年を越えても、まだ少しは残っていたようです。神付の茶菴堂(ちゃやんど)にあった観音などは、既に尾張国宮田村(現江南市宮田町)へ売却されましたが、現品は運び出されないまま、神付の人たちの家に預けられていました。それが3月の中ごろ、代金と引き換えに運び出されました。村雲蔵多の家にあった掛け物などの仏具もこのとき売却されました。
廃仏毀釈の状況視察は藩の重要な仕事で、3月13日には青山大参事と石原定安大参事が揃って管内を巡察しました。農業に精を出し、孝養を尽くしている者に褒美を与えたりしました。 3月25日には神田神社で神武天皇の御霊祭が営まれました。この祭には有本村佐見新田の人たちも残らず参拝しました。
この年、枝宮、枝社など小さな宮は大きな神社に合併が進められました。享保の山論で斬首された2人の霊は、神付の神森神社の若宮として境谷に祀ってありました。場所が離れていて都合が悪いので、この際、神森神社に合併しようとしたところ、これは尊い神の社へ人の霊を併せ祀ることは甚だ宜しくないと、別に山の神の古祠を安置して祀ることになりました。
神森神社、越原村越護神社などが、例年6月14日に行っていた提灯祭は取り止めました。
廃仏毀釈前は七月盆といっていた7月14日、15日、16日の3日間の休日は廃止し、替わりに御霊祭りといって7月1日、2日、3日を休日としました。
これは正月は神を祭ることを第一とし、七月は先祖の御霊を祭ることを第一とする考え方をはっきりさせたものです。
各神社の秋祭は、神楽やしし舞が奉納され、例年以上に盛大でした。
こうして、廃仏毀釈という一大事変は、時間の経過とともに落ち着きを見せていきました。