二、東白川村の仏教
東白川村に仏教が流入したのはいつの時代であるか詳(つまび)らかではありません。
しかし、岐阜県重要文化財となっている、白川(しらかわ)町和泉(いづみ)にある薬師堂の聖観音(しょうかんのん)座像は平安末期の作といわれますし(白川町誌)、また、白川町坂ノ東(さかのひがし)にある飛騨川沿いの臨川寺(りんせんじ)には、明治初年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の折、近くの村々から難を逃れて集められたであろうといわれる仏像群があり、その中に、平安時代のものがかなり多くあります。
ということは、白川筋を中心としたこの地域に、平安時代にすでに仏教が浸透していたことを物語っています。
歴史的にも平安初期以前の仏教は、いわば国家鎮護をもととして貴族や豪族などの支配者の間には流行しましたが、庶民仏教として一般大衆にまで及んだのは、平安期になってからとされています。
わが国へ仏教が伝来して以来、仏教と神道はさまざまにかかわり合い融合して、日本人の宗教生活の底流を形づくってきました。したがって、東白川村に仏教が行われるようになったのも、あるとき突然どこからか伝わったというようなものではなく、永い年月の中で徐々に定着していったものなのです。そういう中で、国家や貴族のための大寺院や官寺に背を向けて、山中での苦業修行で身につけた呪術(じゅじゅつ)をもって民衆の中に入った土着信仰の宗教者たちは、祈祷(きとう)、治病、除災、鎮魂(ちんこん)をもって、民衆から「聖(ひじり)」「菩薩(ぼさつ)」として奉られ、慕われました。
こうした密教への信頼は、現在の科学への信頼と同じように、天体も方位も、日の吉凶も民俗宗教として受け継がれ、村の祭りや年中行事、講など宗教と関係がないと思われるところまでも浸透し、生き続けてきました。
ところで、東白川村に寺院が創建されたのは、嘉慶(かけい)元年(1387)、安江佐右衛門尉正氏(やすえさえもんのじょうまさうじ)(正昭(まさてる))が伊勢大杉谷から神土に定住した前後、すなわち鎌倉時代末期から南北朝時代と推定できます。
なぜならば、源頼朝(みなもとのよりとも)の願旨によって文覚上人(もんがくしょうにん)が、建久(けんきゅう)3年(1192)から建久9年(1198)までの間に、美濃と飛騨の国境の御厩野(みまいの)(益田(ました)郡下呂(げろ)町大字御厩野)に建立したとされる鳳慈尾()ほうじび山大威徳(だいいとく)寺の末寺に、かつての神土村常楽寺、大沢(おおさわ)村蟠龍寺、吉田(よしだ)村大蔵(だいぞう)寺(白川町佐見(さみ))があったとされることや、村内の随所に建てられていた観音堂や阿弥陀堂、辻堂(つじどう)などの現存する建立棟札の記録や、大蔵寺が佐見に移される前は神土村西洞(にしぼら)にあったとする言い伝えや、中世の遺跡が地名として残った越原の「寺坂(てらさか)」、神土大口(おおぐち)の「寺屋敷跡(てらやしきあと)」などがあることなど、さらに、近辺では正和(しょうわ)元年(1312)に虎渓(こけい)山(多治見(たじみ)市)の永保(えいほ)寺が開かれ、観応(かんおう)元年(1350)には植苗木(うえなぎ)(福岡(ふくおか)町)の広恵(こえ)寺が開かれたことなどを考え合わせることができるからです。
また、大威徳寺が戦禍によって荒廃したのは永禄(えいろく)12年(1569)ごろで、天正(てんしょう)年間(安土桃山(あづちももやま)時代)に起こった大地震によって全く崩壊してしまったといわれますから、その末寺の常楽寺や蟠龍寺が創建されたのは、それ以前であることに間違いはありません。
宮代(みやしろ)村妙観寺(みょうかんじ)が、文明(ぶんめい)年中から常清入道政近(つねきよにゅうどうまさちか)が慶長(けいちょう)5年(1600)関ヶ原(せきがはら)の合戦で戦死するまで130年余り続いたとする記録も、東白川村へ仏教が流入した時代を類推する重要な手がかりとなります。
仏教の地方への伝播(でんば)は天台(てんだい)宗、真言(しんごん)宗の二宗が最初とされています。平安期約400年間は、専ら天台宗、真言宗の二宗が隆盛を極めており、山嶽(がく)信仰による修験道(しゅげんどう)との深いかかわりをもって、この地方の民衆の間に深く浸透したものと思われます。
やがて、天台宗、真言宗の二宗の他に浄土(じょうど)宗、真(しん)宗、時(じ)宗、日連(にちれん)宗、臨済(りんざい)宗、曹洞(そうどう)宗など鎌倉新仏教の台頭が相つぎ、大衆仏教は大きく変動していきましたが、中でも禅宗、臨済宗は美濃の守護土岐氏の庇護を得て東濃一帯に大きく広がり、専ら妙心寺派(みょうしんじは)の興隆が見られるようになりました。
江戸時代に入って、宗派ごとに本山、末寺の制度が設けられました。この地域では苗木(なえぎ)藩主遠山(とおやま)氏が創建した菩提寺天龍(てんりゅう)山雲林(うんりん)寺が臨済宗妙心寺派に属していましたので、領内村々のすべての寺院はその末寺となって改宗しました。わが村でも神土村常楽寺、大沢村蟠龍寺がこれにならいました。
寛永(かんえい)年間(1624-43)、切支丹(キリシタン)禁制による寺請(てらうけ)制度が設けられました。寛文(かんぶん)4年(1664)には宗門改(しゅうもんあらた)めが実施されて、村人はいずれかの寺院の檀徒(だんと)になることとなりました。そして、当地域では家単位の檀家(だんか)制度によって、信仰による改宗の自由が許されなくなりました。このため仏教は大衆の信仰の中心として発展するところが少なくなり、寺院は檀那(だんな)寺として家々の葬式や供養を主とするようになりました。
明治初年の神仏分離令に続く廃仏毀釈の断行によって、東白川村からは、寺院をはじめ数世紀にわたって展開してきた仏教の歴史が閉ざされました。その後、復活することなく現在に及んでいます。
しかし、岐阜県重要文化財となっている、白川(しらかわ)町和泉(いづみ)にある薬師堂の聖観音(しょうかんのん)座像は平安末期の作といわれますし(白川町誌)、また、白川町坂ノ東(さかのひがし)にある飛騨川沿いの臨川寺(りんせんじ)には、明治初年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の折、近くの村々から難を逃れて集められたであろうといわれる仏像群があり、その中に、平安時代のものがかなり多くあります。
ということは、白川筋を中心としたこの地域に、平安時代にすでに仏教が浸透していたことを物語っています。
歴史的にも平安初期以前の仏教は、いわば国家鎮護をもととして貴族や豪族などの支配者の間には流行しましたが、庶民仏教として一般大衆にまで及んだのは、平安期になってからとされています。
わが国へ仏教が伝来して以来、仏教と神道はさまざまにかかわり合い融合して、日本人の宗教生活の底流を形づくってきました。したがって、東白川村に仏教が行われるようになったのも、あるとき突然どこからか伝わったというようなものではなく、永い年月の中で徐々に定着していったものなのです。そういう中で、国家や貴族のための大寺院や官寺に背を向けて、山中での苦業修行で身につけた呪術(じゅじゅつ)をもって民衆の中に入った土着信仰の宗教者たちは、祈祷(きとう)、治病、除災、鎮魂(ちんこん)をもって、民衆から「聖(ひじり)」「菩薩(ぼさつ)」として奉られ、慕われました。
こうした密教への信頼は、現在の科学への信頼と同じように、天体も方位も、日の吉凶も民俗宗教として受け継がれ、村の祭りや年中行事、講など宗教と関係がないと思われるところまでも浸透し、生き続けてきました。
ところで、東白川村に寺院が創建されたのは、嘉慶(かけい)元年(1387)、安江佐右衛門尉正氏(やすえさえもんのじょうまさうじ)(正昭(まさてる))が伊勢大杉谷から神土に定住した前後、すなわち鎌倉時代末期から南北朝時代と推定できます。
なぜならば、源頼朝(みなもとのよりとも)の願旨によって文覚上人(もんがくしょうにん)が、建久(けんきゅう)3年(1192)から建久9年(1198)までの間に、美濃と飛騨の国境の御厩野(みまいの)(益田(ました)郡下呂(げろ)町大字御厩野)に建立したとされる鳳慈尾()ほうじび山大威徳(だいいとく)寺の末寺に、かつての神土村常楽寺、大沢(おおさわ)村蟠龍寺、吉田(よしだ)村大蔵(だいぞう)寺(白川町佐見(さみ))があったとされることや、村内の随所に建てられていた観音堂や阿弥陀堂、辻堂(つじどう)などの現存する建立棟札の記録や、大蔵寺が佐見に移される前は神土村西洞(にしぼら)にあったとする言い伝えや、中世の遺跡が地名として残った越原の「寺坂(てらさか)」、神土大口(おおぐち)の「寺屋敷跡(てらやしきあと)」などがあることなど、さらに、近辺では正和(しょうわ)元年(1312)に虎渓(こけい)山(多治見(たじみ)市)の永保(えいほ)寺が開かれ、観応(かんおう)元年(1350)には植苗木(うえなぎ)(福岡(ふくおか)町)の広恵(こえ)寺が開かれたことなどを考え合わせることができるからです。
また、大威徳寺が戦禍によって荒廃したのは永禄(えいろく)12年(1569)ごろで、天正(てんしょう)年間(安土桃山(あづちももやま)時代)に起こった大地震によって全く崩壊してしまったといわれますから、その末寺の常楽寺や蟠龍寺が創建されたのは、それ以前であることに間違いはありません。
宮代(みやしろ)村妙観寺(みょうかんじ)が、文明(ぶんめい)年中から常清入道政近(つねきよにゅうどうまさちか)が慶長(けいちょう)5年(1600)関ヶ原(せきがはら)の合戦で戦死するまで130年余り続いたとする記録も、東白川村へ仏教が流入した時代を類推する重要な手がかりとなります。
仏教の地方への伝播(でんば)は天台(てんだい)宗、真言(しんごん)宗の二宗が最初とされています。平安期約400年間は、専ら天台宗、真言宗の二宗が隆盛を極めており、山嶽(がく)信仰による修験道(しゅげんどう)との深いかかわりをもって、この地方の民衆の間に深く浸透したものと思われます。
やがて、天台宗、真言宗の二宗の他に浄土(じょうど)宗、真(しん)宗、時(じ)宗、日連(にちれん)宗、臨済(りんざい)宗、曹洞(そうどう)宗など鎌倉新仏教の台頭が相つぎ、大衆仏教は大きく変動していきましたが、中でも禅宗、臨済宗は美濃の守護土岐氏の庇護を得て東濃一帯に大きく広がり、専ら妙心寺派(みょうしんじは)の興隆が見られるようになりました。
江戸時代に入って、宗派ごとに本山、末寺の制度が設けられました。この地域では苗木(なえぎ)藩主遠山(とおやま)氏が創建した菩提寺天龍(てんりゅう)山雲林(うんりん)寺が臨済宗妙心寺派に属していましたので、領内村々のすべての寺院はその末寺となって改宗しました。わが村でも神土村常楽寺、大沢村蟠龍寺がこれにならいました。
寛永(かんえい)年間(1624-43)、切支丹(キリシタン)禁制による寺請(てらうけ)制度が設けられました。寛文(かんぶん)4年(1664)には宗門改(しゅうもんあらた)めが実施されて、村人はいずれかの寺院の檀徒(だんと)になることとなりました。そして、当地域では家単位の檀家(だんか)制度によって、信仰による改宗の自由が許されなくなりました。このため仏教は大衆の信仰の中心として発展するところが少なくなり、寺院は檀那(だんな)寺として家々の葬式や供養を主とするようになりました。
明治初年の神仏分離令に続く廃仏毀釈の断行によって、東白川村からは、寺院をはじめ数世紀にわたって展開してきた仏教の歴史が閉ざされました。その後、復活することなく現在に及んでいます。