十、村雲蔵多と蔵多日記
村雲蔵多という人
村雲蔵多は、嘉永2年(1849)正月18日、村雲家の4代目として神土神付に生まれました。幼いころから勉学にいそしむ努力家で、苦労をして文字を学びました。敬神の志厚く、根っからの神道家でもあったようです。
慶應2年(1866)の元旦は「快晴家内滿足新春の祝を述べ神祇を祭り奉」りました。
その年4月8日、釈迦の誕生日に常楽寺で行われた灌仏会のとき、花御堂を作って誕生仏を安置し、甘茶(あまちゃ)を注ぎかけて供養する行事に対し、
慶應2年(1866)の元旦は「快晴家内滿足新春の祝を述べ神祇を祭り奉」りました。
その年4月8日、釈迦の誕生日に常楽寺で行われた灌仏会のとき、花御堂を作って誕生仏を安置し、甘茶(あまちゃ)を注ぎかけて供養する行事に対し、
「當村平安泰山常楽寺に て當日釋迦の生れ日と云像をうぶゆと云ふあまちゃをせんじ草木の花實に て奇麗なる屋根をふきその中に すがたを安置しうぶゆをかけ夫を呑むなり 是を便りに老若男女あわてふためきて参詣するなり 實に仏に意を入て見ればうかしきものなり其は いかにといふにしゃかと云ふも天竺かびらへ国の人なり 其人の生れたる日を祝ひ産水を呑といふはきたなき事の限りなり 是をのむはたれたる糞を喰ふにかわりなしやと吾思ふ也」
と極めて厳しく書いています。(「かびらへ」とは、釈迦の生誕地カピラバストゥの漢名「迦毘羅衛(カビラエ)」のこと)
慶応3年8月には、同じ志を持つ山下の安江鉄五郎と共に寄付を募って、神付に鎮座する愛宕社、津嶋社、若宮の3社に立派な「みす」を掛けました。
慶応3年8月には、同じ志を持つ山下の安江鉄五郎と共に寄付を募って、神付に鎮座する愛宕社、津嶋社、若宮の3社に立派な「みす」を掛けました。
「吾國は神國なり さるに君(きみ)をはじめ臣に至迄神之道を重しと守らせ給ふ也 付ては下民ニ ても神祇をおもく守るの処・・・…(中略)…・・・御祭り毎に御戸を開候得共御神躰現(あらわ)ニ 拝し奉り餘り恐れ多き事ニ て神事之度毎に御みすをかけ奉りたらよろしき也」
という意図からでした。
こうして明治維新を迎え、明治3年4月、平田派国学に入門するに及んで、「神國之掟を守り一天萬乘之君奉守護神祇之道を厚く守」る心情がさらに強固になっていきました。
神葬改宗については、平田派国学に入門したこともあって、比較的早くその決意を固めました。しかし、家族の同意が得られないため、決意とは別にその時期が遅れましたが、神葬改宗に熱意をもって率先した一人でした。
こうして明治維新を迎え、明治3年4月、平田派国学に入門するに及んで、「神國之掟を守り一天萬乘之君奉守護神祇之道を厚く守」る心情がさらに強固になっていきました。
神葬改宗については、平田派国学に入門したこともあって、比較的早くその決意を固めました。しかし、家族の同意が得られないため、決意とは別にその時期が遅れましたが、神葬改宗に熱意をもって率先した一人でした。