十二、ゆかりの仏像仏具
常楽寺の鐘楼
廃仏毀釈当時の所在地 | 臨済宗妙心寺派(りんざいしゅうみょうしんじは) 安泰山(あんたいざん) 常楽寺(じょうらくじ) 濃州加茂郡神土(かんど)村平(たいら) (東白川村神土平) |
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現所在地 | 真宗大谷派 無量山(むりょうざん) 深妙寺(しんみょうじ) 愛知県江南市宮田町本郷262番地 |
形式形状 | 木造 和瓦葺 桜丸柱4本建 格天井 柱の直径 28センチメートル 柱から柱までの幅 285センチメートル 柱は4本とも土台石(石臼が利用してある)から48センチメートル上がったところで継いである。 |
数量 | 1棟 |
銘文 | 記載がない。 |
建築年代 | 資料によると梵鐘の鋳直しによる鐘掛供養が弘化(こうか)4年(1847)3月28日とあり、鋳直し前の梵鐘にも使用されているものと推定されるがそれを知る資料が見当たらない。 ちなみに、常楽寺は文化元年(1804)火災で焼失し、翌文化2年から3年にかけて方丈と庫裡(くり)が再建されている。また文化5年(1808)には常楽寺の普請が出来、4月16日に入仏供養をしたという記録がある。 |
梵鐘を吊るす鐘楼は、その寺院にも欠くことのできない建物です。夕焼けの空に撞木で打ち鳴らす鐘の音は、郷愁を誘う何かがあります。
常楽寺の鐘楼は梵鐘と共に、廃仏毀釈が実行された明治3年の閏10月1日に中山道今渡村常介(じょうすけ)を介して尾張前飛保(まえひぼ)村無量山深妙寺へ売却されました。
村雲蔵多の「明治三年見聞録」には、
「十月廿七日より廿九日迄糶(せり)いたし 仏具不用之者賣佛候 方丈之方一圓代金百三十両ニ て神戸彌介(かんべやすけ)買取 釣鐘堂ともども代金百餘りニ て笠松辺之坊主来たり買取候 此堂桜の丸柱にて誠よろしき堂なり」
とあります。
深妙寺は、もともと前飛保(まえひぼ)村にあったのですが、明治27年(1894)に、そこから約1.5キロメートル北西の現在地に移転しました。寺前に立つ移転記念碑には次のように書かれています。
常楽寺の鐘楼は梵鐘と共に、廃仏毀釈が実行された明治3年の閏10月1日に中山道今渡村常介(じょうすけ)を介して尾張前飛保(まえひぼ)村無量山深妙寺へ売却されました。
村雲蔵多の「明治三年見聞録」には、
「十月廿七日より廿九日迄糶(せり)いたし 仏具不用之者賣佛候 方丈之方一圓代金百三十両ニ て神戸彌介(かんべやすけ)買取 釣鐘堂ともども代金百餘りニ て笠松辺之坊主来たり買取候 此堂桜の丸柱にて誠よろしき堂なり」
とあります。
深妙寺は、もともと前飛保(まえひぼ)村にあったのですが、明治27年(1894)に、そこから約1.5キロメートル北西の現在地に移転しました。寺前に立つ移転記念碑には次のように書かれています。
先住素導 先々住鳳賢ノ意思ヲ嗣キ廣瀬氏先住ヲ補佐シ 檀信徒恊力事ニ從ヒ 明治二十七年四月八日
前飛保ヨリ當所ニ遷仏遷座式ヲ挙行スル
大正八年四月 建之
第十五世住職鳳順代 同行中
前飛保ヨリ當所ニ遷仏遷座式ヲ挙行スル
大正八年四月 建之
第十五世住職鳳順代 同行中