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東白川村の「廃仏毀釈」

九、信州高遠の石工

高遠石工とは
 『山里に花ひらく高遠の石工』によれば、元禄3年(1690)徳川幕府は厳しい検地(けんち)を断行し、高遠藩から6,300余石を召し上げました。

 財政の逼迫(ひっぱく)した高遠藩では、窮余の一策として、耕地の分散を禁じ、農家の2、3男は他国へ出稼ぎに行くよう奨励しました。

 そのため、高遠藩の藤沢郷や入野谷郷などの人々は石切の技術を習得し、石工となって全国各地へ旅稼ぎに出ました。

 最初は、冬の間の農閑期だけの稼ぎでしたが、旅先での評判が良いので、長期に亘(わた)って逗留(とうりゅう)する者や、ついには旅先に定住して石切稼業を続ける者もいました。

 高遠藩は、これらの諸国へ旅に出た石切職人を取り締まるため、各郷に「石切目付」を置いて運上金の取り立てを行いました。ちなみに文化8年(1811)高遠藩が石切職人に課した運上金は171両2朱だったそうです。

 また、高遠藩は、他国へ出稼ぎに行った農民が、土地を離れたため農地が荒れてはならないと、「出稼ぎにでる石工は、役所へ一札(いっさつ)を入れて出国し、もし帰郷しない者があれば請人(うけにん)が迎えに行って連れ戻せ」と厳しい法度を制定しました。

 しかし、それでも長期間の逗留で、旅先に定住する者が少なくありませんでした。

 こうして、信州高遠から東濃路に出稼ぎに出た石工の中に、常楽寺の名号塔を刻んだ東白川村ゆかりの伊藤傅蔵がいたのです。

高遠石工伊藤家五代傅蔵の墓

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