十二、ゆかりの仏像仏具
千躰地蔵尊像(せんたいじぞうそんぞう)
廃仏毀釈当時の所在地 | 岩倉千躰堂(いわくらせんたいどう) 濃州加茂郡越原(おっぱら)村岩倉 (東白川村越原曲坂(まがりさか)) (跡地は現在曲坂集会所の敷地となっている) |
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現所在地 | 曹洞宗(そうどうしゅう) 万灯山(ばんとうざん) 法禅寺(ほうぜんじ) 薬申閣(やくしんかく) 岐阜県恵那郡加子母(かしも)村 |
形式形状 | 木造 像高 |
数量 | 1000体のうちの500体 |
銘文 | 仏像の裏面に寄進者の名があることは確認されているが、現在は固定安置されているので調査することができない。 |
年代 | 寛政10年(1798) 及び文化11年(1814) |
作者 | 不詳 |
越原村双竹亭崔二が残した『千躰地蔵尊施助勧請文』(名古屋女子大学蔵)によると、彼の祖先が千躰堂に千躰地蔵尊を安置したのは慶長(1596~1615)の昔です。その棟札に記載されたところでは、千躰堂は延享(えんきょう)3年(1764)に再建されました。しかし、その後、仏像が盗難に遭って散逸してしまい、お堂も手入れがされないまま、崩れ落ちてしまいました。
村びとはこれを嘆いて小宇を建て、石造の地蔵尊を安置したので、千躰地蔵尊の名だけが空しく残ることとなりました。
こうして時は流れ、寛政(かんせい)10年(1798)、越原村弥吉(やきち)が広く寄進(きしん)を求めて漸く500体だけ安置することができました。
弥吉の志を継いだ双竹亭崔二は、再び往昔のように地蔵尊を千体に充足しようと決意しました。
文化11年(1814)、崔二は信心する人たちに呼びかけて寄進を求め、ついに、残る500体を安置することができ、その願いを達しました。
このときの地蔵尊1体の値段は、銀1匁5分であったと記録に残っています。
かくて明治3年(1870)、廃仏毀釈の影響は容赦なく千躰地蔵尊にも及びました。
その処分については、白川に流すことに衆議が一致しました。
さてその日、村びとは岩倉橋から1体ずつ丁寧に川に流していました。そこへ通りかかったのが加子母村万賀(まんが)島屋宗十郎でした。千躰地蔵尊は、すでに500体は白川に流され、残りの500体だけが村びとの手元にありました。島屋宗十郎はこのありさまを見て、あまりの勿体なさに愕然としました。宗十郎は残っている500体を譲り受け、自宅に持ち帰って安置しました。
五百体の地蔵尊は、その後法禅寺に移され、加子母村の人たちの寄進によって更に500体が充足されて、昔ながらの千躰地蔵尊として蘇(よみがえ)りました。
昭和32年には、加子母村上区藤山から薬申閣を法禅寺の境内に移し、千躰地蔵尊が安置されました。
村びとはこれを嘆いて小宇を建て、石造の地蔵尊を安置したので、千躰地蔵尊の名だけが空しく残ることとなりました。
こうして時は流れ、寛政(かんせい)10年(1798)、越原村弥吉(やきち)が広く寄進(きしん)を求めて漸く500体だけ安置することができました。
弥吉の志を継いだ双竹亭崔二は、再び往昔のように地蔵尊を千体に充足しようと決意しました。
文化11年(1814)、崔二は信心する人たちに呼びかけて寄進を求め、ついに、残る500体を安置することができ、その願いを達しました。
このときの地蔵尊1体の値段は、銀1匁5分であったと記録に残っています。
かくて明治3年(1870)、廃仏毀釈の影響は容赦なく千躰地蔵尊にも及びました。
その処分については、白川に流すことに衆議が一致しました。
さてその日、村びとは岩倉橋から1体ずつ丁寧に川に流していました。そこへ通りかかったのが加子母村万賀(まんが)島屋宗十郎でした。千躰地蔵尊は、すでに500体は白川に流され、残りの500体だけが村びとの手元にありました。島屋宗十郎はこのありさまを見て、あまりの勿体なさに愕然としました。宗十郎は残っている500体を譲り受け、自宅に持ち帰って安置しました。
五百体の地蔵尊は、その後法禅寺に移され、加子母村の人たちの寄進によって更に500体が充足されて、昔ながらの千躰地蔵尊として蘇(よみがえ)りました。
昭和32年には、加子母村上区藤山から薬申閣を法禅寺の境内に移し、千躰地蔵尊が安置されました。