六、四つ割の南無阿弥陀仏碑
歓喜の再建
時は流れて昭和の年代に入り、日本が激動期の荒波に揺られ、人心も生活不安にかられていたころ、村内に悪疫が流行し、不幸が続出しました。だれ言うとなく「名号塔埋没のたたり」といううわさが流れました。
これが契機となって昭和10年(1935)、天祐館医師安江浩平(こうへい)(飛騨竹原出身)の主唱によって、当時の消防組の指導者を中心とした平(たいら)地区在住の壮年14人が世話人となり、四散した石塊を集め、一週間に及ぶ作業の末、現在地に再建しました。
ちょうど、夏の真っ盛り、7月の半ば過ぎのことでした。
明治3年9月以来65年ぶりによみがえった名号塔に人々は歓喜しました。
昭和10年8月1日、伊深(いぶか)(美濃加茂市)正眼寺(しょうげんじ)の僧や鹿塩(かしお)(川辺町)長昌寺の矢田祐保和尚など5人の僧侶を招いて盛大な供養祭が営まれました。稚児の行列も賑わしく、神土の住民はいうに及ばず、越原や五加の人々もこぞって参拝しました。
今でも毎年8月15日には平地区の人々の手によって盂蘭盆(うらぼん)の供養が続けられ、年中供花が絶えません。
これが契機となって昭和10年(1935)、天祐館医師安江浩平(こうへい)(飛騨竹原出身)の主唱によって、当時の消防組の指導者を中心とした平(たいら)地区在住の壮年14人が世話人となり、四散した石塊を集め、一週間に及ぶ作業の末、現在地に再建しました。
ちょうど、夏の真っ盛り、7月の半ば過ぎのことでした。
明治3年9月以来65年ぶりによみがえった名号塔に人々は歓喜しました。
昭和10年8月1日、伊深(いぶか)(美濃加茂市)正眼寺(しょうげんじ)の僧や鹿塩(かしお)(川辺町)長昌寺の矢田祐保和尚など5人の僧侶を招いて盛大な供養祭が営まれました。稚児の行列も賑わしく、神土の住民はいうに及ばず、越原や五加の人々もこぞって参拝しました。
今でも毎年8月15日には平地区の人々の手によって盂蘭盆(うらぼん)の供養が続けられ、年中供花が絶えません。