十二、ゆかりの仏像仏具
廃仏毀釈年表
1192-98 (建久3年-建久9年) |
源頼朝の願旨により、文覚上人が濃飛国境の御厩野に大威徳寺を建立した。 |
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1312(正和元年) | 多治見虎渓山の開祖夢窓国師が永保寺を開いた。 |
1350(観応元年) | 夢窓国師の弟子枯木禅師が植苗木に広恵寺を開いた。 |
1387(嘉慶元年) | 安江佐右衛門尉正昭が伊勢大杉谷から神土に定住した。 |
1495(明応4年) | 柏本八幡宮(現五加神社)再建棟札。 |
1556(弘治2年) | 柏本八幡宮(現五加神社)上葺棟札。 |
1569(永禄12年) | 大威徳寺が戦禍によって荒廃した。 |
1573(天正元年) | 宮代の九頭大明神(後の石戸神社)が火災で焼失した。 |
1574(天正2年) | 宮代妙観寺が願主となって九頭大明神が再建された。 |
1583(天正11年) | 初代苗木藩主遠山友政が森長可に攻められて苗木城を捨て徳川家康に従った。 |
1585(天正13年) | 11月、大威徳寺が地震のため壊滅し、僧徒はことごとく離散した。 |
1589(天正17年) | 天正検地が行われた。 |
1597(慶長2年) | 遠藤胤直が白山妙理大権現(現神田神社)を再建、中谷で神田3反を寄進した。 |
1600(慶長5年) | 宮代妙観寺常清入道政近が関ヶ原の合戦で戦死した。 遠山友政が旧地を回復し、再び苗木城に入った。 |
1601(慶長6年) | 4月11日、常楽寺一世心叟王和尚が死去した。 |
1609(慶長14年) | 慶長検地が行われた。 11月6日、遠山秀友が生まれた。 |
1610(慶長15年) | 遠山友政が駿府城本丸造営にあたり普請用材奉行を勤めた。 |
1612(慶長17年) | 江戸幕府がキリスト教の禁圧にとりかかった。 |
1614(慶長19年) | 9月、遠山友政が菩提寺天竜山雲林寺を創設した。 遠山英友が六歳で将軍秀忠にお目見得した。 12月、遠山友政が大坂冬の陣に伊勢国桑名城を守った。 |
1615(元和元年) | 遠山友政が大坂夏の陣に伊勢国亀山城主松平忠明に属して出陣した。 |
1619(元和5年) | 12月19日、遠山友政が苗木で死去した。(64歳) |
1620(元和6年) | 5月、遠山秀友が12歳で家督を継ぎ、第2代苗木藩主となった。 |
1624(寛永元年) | キリシタン禁制による寺請制度が設けられた。 |
1624(寛永2年) | 4月、親田神明社(現神明神社)が創建された。 |
1626(寛永3年) | 5月21日、常楽寺2世了山全和尚が死去した。 |
1635(寛永12年) | 3月、遠山秀友が大坂御番となった。 |
1637(寛永14年) | 遠山秀友が江戸本丸奥間普請を手伝った。 |
1640(寛永17年) | 宗門改め役が置かれた。 3月、遠山秀友が再び大坂御番となった。 |
1641(寛永18年) | 4月2日、遠山友貞が苗木で生まれた。 |
1642(寛永19年) | 1月7日、遠山秀友が苗木で死去した。(34歳) 5月、遠山友貞が二歳で父秀友の遺領を継ぎ、第3代苗木藩主となった。 |
1647(正保4年) | 6月29日、遠山友貞が将軍にお目見得した。 |
1648(慶安元年) | 遠山友貞が領内では初めての宗門改めを実施した。 |
1656(明暦2年) | 4月26日、常楽寺3世渓岸源和尚が死去した。 |
1661(万治4年) | 塩村(可児市春里)でキリシタンが発見され、24人が捕らえられた。 |
1661(寛文元年) | 6月6日、遠山知春が苗木で生まれた。 12月28日、遠山友貞が従五位下信濃守に叙任された。 |
1663(寛文3年) | 加子母村法禅寺の前身福田寺が開創された。 |
1664(寛文4年) | 各藩で宗門改めが実施された。 |
1665(寛文5年) | 蟠龍寺が再建された。 常楽寺が臨済宗に改宗して苗木雲林寺の末寺となった。 |
1671(寛文11年) | 遠山友貞が駿府加番を命ぜられた。 |
1675(延宝3年) | 正月19日、常楽寺4世銑翁午和尚が死去した。 5月6日、遠山友貞が病気湯治中、伊豆国熱海で死去した。(35歳) 7月6日、遠山友春が父友貞の遺領を継ぎ、第4代藩主となった。 |
1676(延宝4年) | 12月26日、遠山友春が従五位下和泉守に叙任された。 |
1678(延宝6年) | 10月12日、蟠龍寺一世南隣禪松が死去した。 |
1680(延宝8年) | 8月晦日、遠山友春が志摩国鳥羽を管理した。 |
1684(貞享元年) | 宮代の九頭大明神(後の石戸神社)が4たび建立された。(現存する社殿) |
1685(貞享2年) | 7月、神付茶菴堂が再建された。 |
1690(元禄3年) | 徳川幕府が検地を断行した。 |
1694(元禄7年) | 9月23年、遠山友由が苗木で生まれた。 |
1697(元禄10年) | 賀茂眞淵が遠江国(静岡県)で生まれた。 |
1702(元禄5年) | 6月25日、岩村城主丹羽和泉守が越後へ左遷されたとき遠山友春がその城地受け取りの任に当たった。 |
1704(宝永元年) | 11月、神付茶菴堂が修復された。 |
1705(宝永2年) | 6月10日、遠山友由が将軍にお目見得した。 10月7日、遠山友央が苗木で生まれた。 10月14日、蟠龍寺2世大胸祖満が死去した。 |
1707(宝永4年) | 12月23日、遠山友由が従五位下伊予守に叙任された。 |
1712(正徳2年) | 2月16日遠山友春が隠居し、号を友山入道と称した。 同日遠山友由が家督を相続し、第五代苗木藩主となった。 6月28日、蟠龍寺3世大秀玄智が死去した。 |
1714(正徳4年) | 3月2日、遠山友春が54歳で死去した。 9月、神付茶菴堂が修復された。 |
1715(正徳5年) | 9月9日、遠山友将が苗木で生まれた。 |
1717(享保2年) | 1月11日、松平藩磨守頼明の三男越之進(後の遠山友明)が生まれた。 |
1718(享保3年) | 7月26日、美濃国に大地震があり、苗木城が大破した。 |
1722(享保7年) | 4月21日遠山友由が江戸で病死した。(29歳) 4月25日、常楽寺5世大圭猷和尚が死去した。 6月15日、遠山友将が家督を相続し、第6代苗木藩主となった。 6月28日、遠山友央が将軍徳川吉宗にお目見得した。 |
1725(享保10年) | 8月15日、遠山友将が将軍徳川吉宗にお目見得した。 加子母村法禅寺が焼失した。 |
1727(享保12年) | 12月18日、遠山友将が従五位下豊前守に叙任された。 |
1730(享保15年) | 本居宣長が伊勢国(三重県)で生まれた。 |
1732(享保17年) | 閏5月21日、遠山友将が江戸芝屋敷で死去した。(18歳) 閏5月25日、遠山友央が友将の家督を継ぎ、第7代苗木藩主となった。 12月16日、遠山友央が従五位下和泉守に叙任された。 |
1733(享保18年) | 3月11日、越之進が遠山友央の養子となった。 5月1日、越之進が将軍吉宗に拝謁した。 12月18日、越之進が従五位下丹後守に叙任された。 |
1734(享保19年) | 2月12日、越之進が名を友張と改めた。 3月12日、神付茶菴堂が修復された。 |
1735(享保20年) | 5月14日、遠山友清が江戸で生まれた。 |
1738(元文3年) | 蟠龍寺4世黙室禪宣が死去した。 |
1740(元文5年) | 8月27日、遠山友央が隠居した。 同日、遠山友張が家督を相続し、第8代苗木藩主となった。 加子母村法禅寺が復興した。 |
1744(延享元年) | 11月25日、神付茶菴堂が修復された。 |
1745(延享2年) | 1月29日、遠山友清が八代友明の順養子となった。 |
1746(延享3年) | 岩倉千躰堂が再建された。 |
1747(延享4年) | 2月5日、遠山友随が江戸麻布下屋敷で生まれた。 7月5日、蟠龍寺5世北嚴玄竺が死去した。 |
1748(延享5年) | 5月15日、遠山友張が友明と改名した。 |
1748(寛延元年) | 11月24日、神付茶菴堂が修復された。 茶菴堂に西国三十三所観音が安置された。 |
1749(寛延2年) | 5月15日、遠山友清が将軍家重に拝謁した。 |
1750(寛延3年) | 12月18日、遠山友清が従五位下出羽守に叙任された。 |
1753(宝暦3年) | 6月1日、遠山友明が江戸で死去した。(37歳) 6月18日、常楽寺六世円峰周和尚が死去した。 7月23日、遠山友清が家督を相続し、第9代苗木藩主となった。 |
1758(宝暦8年) | 2月27日、遠山友随が遠山友清の嗣子となった。 |
1763(宝暦13年) | 2月24日、蟠龍寺6世希岳祖廉が死去した。 |
1764(明和元年) | 本居宣長が『古事記伝』の執筆に着手した。(35歳) 3月15日、遠山友随が将軍家治にお目見えした。 |
1765(明和2年) | 12月18日、遠山友随が従五位下近江守に叙任された。 |
1768(明和5年) | 7月28日、常楽寺7世普翁門和尚が死去した。 |
1769(明和6年) | 賀茂眞淵が死去した。 |
1771(明和8年) | 8月21日、常楽寺8世鑒應古和尚が死去した。 |
1772(明和9年) | 6月13日、遠山友央が福岡村栗本温泉で湯治中死去した。(68歳) |
1773(安永5年) | 11月、遠山友清が飛騨安永騒動の際、飛騨鎮定に協力した。 |
1776(安永5年) | 平田篤胤が出羽国(秋田県)で生まれた。 3月7日、遠山友清が和泉守となった。 |
1777(安永6年) | 11月3日、遠山友清が隠居した。 11月8日遠山友随が家督を相続し、第10代苗木藩主となった。 |
1781(安永10年) | 1月12日、遠山友清が麻布下屋敷で死去した。(47歳) |
1785(天明5年) | 7月7日、蟠龍寺7世定岳祖禪が死去した。 |
1786(天明6年) | 11月25日、遠山友壽が生まれた。 |
1792(寛政4年) | 12月21日、遠山友随が隠居した。 同日、遠山友壽が家督を継ぎ、第11代苗木藩主となった。 |
1797(寛政9年) | 2月9日、遠山友壽が将軍家斎に拝謁した。 |
1798(寛政10年) | 本居宣長が『古事記伝』48巻を完成した。(69歳) 越原村称吉が千躰地蔵尊500体を安置した。 |
1799(寛政11年) | 平田篤胤が伊予国(愛媛県)で生まれた。 |
1801(享和元年) | 本居宣長が死去した。 12月16日、遠山友壽が従五位下刑部少輔に任ぜられた。 |
1803(享和3年) | 6月28日、常楽寺9世聖外果和尚が死去した。 |
1804(文化元年) | 3月26日、常楽寺が火災で焼失した。 |
1805(文化2年) | 2月3日、蟠龍寺8世大方禪珠が死去した。 常楽寺の再建が始まった。 |
1808(文化5年) | 4月16日、常楽寺の再建が成り、入仏供養が行われた。 平田篤胤が神祇伯白川家から古学の教授を委嘱された。 |
1814(文化11年) | 4月11日、遠山友壽が美濃守となった。 越原村双竹亭崔二が千躰地蔵五百体を安置し千体に充足した。 |
1817(文化14年) | 3月25日、蟠龍寺9世容道禪興が死去した。 |
1819(文政2年) | 青山景通が生まれた。 9月2日、遠山友禄が苗木で生まれた。 |
1821(文政4年) | 7月8日、遠山友随が死去した。(75歳) |
1822(文政5年) | 2月11日、吉田村大蔵寺が火災に遭った。 同月、高遠の石工傅蔵らが神田神社の石灯籠を造った。 8月、高遠の石工傅蔵らが神田神社の石段を築いた。 |
1829(文政12年) | 3月、神付茶菴堂が修復された。 |
1835(天保6年) | 7月、常楽寺の山門に名号塔が建立された。 11月、笠松の石造六地蔵尊が寄進された。 12月、遠山友禄が従五位下刑部少輔に叙任された。 |
1838(天保9年) | 11月21日、遠山友壽が死去した。(53歳) |
1839(天保10年) | 2月5日、遠山友禄が家督を相続して、第12代苗木藩主となった。 |
1843(天保14年) | 平田篤胤が死去した。 |
1846(弘化3年) | 青山直道が生まれた。 |
1847(弘化4年) | 3月28日、常楽寺の梵鐘が鋳直され鐘掛供養が行われた。 |
1848(嘉永元年) | 3月6日、常楽寺10世鳳宗來和尚が死去した。 |
1852(嘉永5年) | 青山景通が平田銕胤の門に入った。 |
1857(安政4年) | 10月8日、蟠龍寺十世中寳文晢が死去した。 |
1860(安政7年) | 正月、遠山友禄が幕府の奏者番となった。 |
1861(文久元年) | 7月15日、遠山友禄が幕府の若年寄りに栄進した。 |
1862(文久2年) | 9月24日、青山直道が刀番となった。 この年の文書に、「高遠の石工一人が東白川村に移住した」とある。 |
1865(慶応元年) | 9月、青山直道が平田学に入門した。 |
1867(慶応3年) | 6月17日、遠山友禄が幕府の若年寄りを辞任した。 |
1868(慶応4年) | 3月13日、新政府から神道が神祇官に専属する旨の布告が発せられた。 3月17日、神祇局から社僧禁止の布令が全国の神社へ達せられた。 3月28日、神祇局からいわゆる「神仏判然の御沙汰」と称する布告が発せられた。 4月10日、政府は、排仏の行き過ぎを戒める布告を発した。 4月23日、青山直道が藩主友禄に随行して出京した。 閠4月4日、太政官から別当、社僧の還俗を促す布達が発せられた。 閠4月19日、太政官から還俗した者に対し、社僧時代の待遇をそのまま許す旨の布令が発せられた。 5月29日、蟠龍寺十一世祖恩が死去した。 5月、青山景通が徴士権判事に任命された。 6月、遠山友禄が朝廷の命により信州善光寺へ出兵した。 7月、千葉権右衛門が永蟄居を申し付けられた。 7月24日、青山直道が目付役となった。 8月16日、青山景通が神葬改宗を願い出た。 九頭大明神が石戸神社と改称した。 |
1869(明治2年) | 旧苗木藩士の中の平田門人35人。 2月、遠山友禄が職制の大改革を実施し、執政などを置いた。 同月、遠山友禄が版籍を奉還した。 4月24日、遠山友禄が飛騨騒動により保護を求めてきた高山県知事梅村速水を京都へ護送した。 6月、今井七郎左衛門が東京で横死した。 6月23日、遠山友禄が苗木藩知事に任命された。 10月7日、遠山友禄が職制の改革をし、大小参事を置いた。 11月2日、青山直道が苗木藩大参事に任用された。 12月5日、藩校「日新館」が開校した。 12月、還俗した社僧、別当職に神祇に奉仕する神職・社人としての身分を与え、その序列が定められた。 |
1870(明治3年) | 蟠龍寺が事実上廃寺となった。 遠山友禄が平田学に入門した。 1月12日、反青山派に対する一斉弾圧が行われた。 1月25日、千葉権右衛門、千葉侑太郎、中原央、神山健之進が田畑や家財を没収された。 5月、名主の呼称を里正に改めた。 7月23日、苗木藩が郡市局長名をもって、家臣一同へ神葬改宗を願い出るよう示達した。 7月27日、知事遠山友禄が神葬改宗を願い出た。 8月7日、苗木藩が、管内の士族、卒族などのすべてが神葬に改宗する旨を願い出、その日のうちに、聴許された。 8月8日、反青山派に対する最終的処断が行われ、18人が終身流罪などになった。 8月15日、苗木藩郡市局が廃仏を徹底するよう布達した。 8月27日、苗木藩が郡市局長名をもって、九月十日までに管内のすべてが神葬改宗をするよう村継ぎをもって布達した。 8月28日、神付茶菴堂の仏像などが撤去された。 8月から11月にかけて、廃仏毀釈が断行された。 9月1日までに、神土村、越原村、柏本五か村の村びと全員の神葬改宗願いが出された。 9月3日、苗木藩が管下寺院の住職全員を藩庁へ呼び出し、正式に廃寺帰俗を要求した。 9月、常楽寺11世自董は還俗し、名を安江良左衛門正常と改めた。 9月、平民に苗字が許された。 9月27日、常楽寺など苗木藩管内の十五か寺が廃寺の届出をした。 9月29日、廃仏毀釈後初めての神田神社の祭りが行われ、苗木藩知事遠山友禄らが参詣した。 10月27日から29日まで、常楽寺の仏具などが競り売りされた。 閠10月1日、常楽寺の鐘楼と梵鐘が尾張前飛保村(現愛知県江南市宮田町)深妙寺へ売却された。 |
1871(明治4年) | 平田門人は領内村役人を含めて56人。 5月、明治新政府は神社の国家護持を位置づけ、社格を定めた。 同月、苗木藩は管内を6区に分け、各区に一社ずつの郷社を定めた。神田神社が郷社となった。 6月14日、廃藩置県。 7月14日、廃藩となったので、遠山友禄が知事を辞職した。 毎年7月14日、115日、16日を盆休日としていたのを廃止し、同月1日、2日、3日を御霊祭りの休日とした。 9月、神職・社人を廃し、祠官・祠掌が任命された。 10月、村社が決定された。 11月22日、美濃国諸県が廃止され、岐阜県が置かれた。 |
1872(明治5年) | 修験道の流布が禁止された。 |
1879(明治12年) | 2月、青山直道が岐阜県大野、池田郡(現揖斐郡)の初代郡長に任命された。 9月6日、常楽寺十一世自董(安江良左右衛門)が死去した。 |
1880(明治13年) | 平田銕胤が死去した。(81歳) |
1881(明治14年) | 1月、青山直道が岐阜県大野、池田郡(現揖斐郡)の郡長を退官した。 |
1885(明治18年) | 修験道の再興が許された。 |
1886(明治19年) | 高遠の石工5代傳蔵が亡くなった。 |
1887(明治20年)ごろ | 蟠龍寺の再興が企図されたが挫折した。 |
1897(明治24年) | 元常楽寺の建物が解体された。 |
1894(明治27年) | 4月4日、遠山友禄が死去した。(76歳) 常楽寺鐘楼を買い取った深妙寺が前飛保から宮田(現江南市宮田町)へ還座した。 |
1914(大正3年) | 旧『東白川村誌』が刊行された。 |
1915(大正4年) | 5月14日、吉田村大蔵寺が全焼した。 |
1918(大正7年) | 下野銅山監督安川憲の発願で蟠龍寺の石造物が再建された。 |
1935(昭和10年) | 8月1日、「四つ割りの南無阿弥陀仏碑」が再建され、供養祭が営まれた。 |
1948(昭和23年) | 深妙寺の梵鐘が新しく鋳造された。 |
1959(昭和34年) | 「大威徳寺跡」が岐阜県史跡に指定された。 |
1960(昭和35年) | 11月、石戸神社が五加神社に合併された。 |
1976(昭和51年) | 6月1日、「石戸神社殿」「蟠龍寺過去帳」が東白川村有形文化財に指定された。 同日、「四つ割りの南無阿弥陀仏碑」「蟠龍寺跡」が東白川村史跡に指定された。 |