二、東白川村の仏教
青松山蟠龍寺(せいしょうざんばんりゅうじ)
この寺は五加大沢(ごかおおさわ)の通称「横引(よこび)き」から西に延びる旧道沿いの、南に面した山麓にありました。往昔は神土村常楽寺と同じように飛騨御厩野の大威徳寺の末寺でしたが、近世は苗木藩菩提寺天龍山雲林寺の末寺として臨済宗妙心寺派に属し、大澤(おおさわ)村、柏本(かしもと)村、久須見(くすみ)村、下野(しもの)村、宮代(みやしろ)村、中屋(なかや)村、須崎(すさき)村の七か村の檀那寺でした。
本尊は聖観音菩薩だったといいます。
この寺も草創の年代は詳らかでありませんが、雲林寺の末寺に属した以後、中興の祖南隣禪松から12世全理まで、およそ200年の寺歴があります。
中興
1世 南隣禪松
延宝6年(1678)10月12日亡
2世 大胸祖滿
宝永2年(1705)10月14日亡
3世 大秀玄智
正徳2年(1712)6月28日亡
4世 默室禪宜
元文3年(1738)5月17日亡
5世 北巖玄竺
延享4年(1747)7月5日亡
再中興
6世 希岳祖廉
宝暦13年(1763)2月24日亡
7世 定岳祖禪
天明5年(1785)7月7日亡
8世 大方禪珠
文化2年(1805)2月3日亡
9世 容道禪興
文化14年(1817)3月25日亡
10世 中寳文晢
安政4年(1857)10月8日亡
11世 祖恩
慶応4年(1868)5月29日亡
12世 全理
蟠龍寺の廃寺は、明治初年、12世全理が姫栗村長増寺(現在の恵那市笠置(かさぎ))から着任して間もなくのことでした。そのころは、神仏分離令が布告され、ようやく廃仏の声がやかましくなっていました。
あるとき、村の若者たちがいたずらに「穢(けが)れの者これより外に出るべからず」と大書した高札を寺の門前に立てました。全理は勝気な僧でしたので、早速「俗人の輩(やから)みだりに聖境へ入るべからず」と逆襲しました。このようなことが、だんだん村の人々の反感を買うようになり、全理は遂に寺を去ってしまいました。
こうして蟠龍寺は、藩庁からの廃寺帰俗の申し渡しを待たないで、事実上終焉(しゅうえん)を告げました。明治3年9月27日、廃寺の届出のあった領内15か寺の中に蟠龍寺の名前が見られないのはこのためです。
廃寺のときの蟠龍寺の所有地は、宅地が1反歩ほどと3人が生活できるほどの田畑、山林がありました。建物は6間×13間で、外に土蔵もありました。
本堂は飛騨高山へ売却し、祠堂(しどう)の位牌などは焼却しました。土地や什器(じゅうき)諸道具などは地元の世話方5人に売り渡しました。その代金は、15両を蟠龍寺の永代祭祀(えいたいさいし)料として前記の5人に渡し、残りは旧檀家であった7か村へ分配しました。
大般若経百巻のうち50巻と過去帳8冊は、藩役人の目を逃れて柏本の神職元安正院こと安江五郎正朝の家へ移されました。
それから時が過ぎて明治20年ごろ、野上正伝寺(しょうでんじ)(現在の八百津(やおつ)町和知(わち))の先住が蟠龍寺の再興を企図し、有志とともに2間×3間の小堂を建てましたが、暴風のために倒壊してしまい、とうとうその目的を達することができませんでした。
また、寺の大門先に建てられていた名号塔、庚申(こうしん)塔などは、廃寺以来倒されたまま放置されていましたが、大正7年(1918)、五加下野銅山の監督として大阪から出張して来ていた安川憲の発願で元の参道わきに建て直されました。
これらの石塔は、歴代住職の墓塔、敷地の石積みなどと共に、今もなお、寺屋敷跡の雰囲気を静かに漂(ただよ)わせています。
本尊は聖観音菩薩だったといいます。
この寺も草創の年代は詳らかでありませんが、雲林寺の末寺に属した以後、中興の祖南隣禪松から12世全理まで、およそ200年の寺歴があります。
中興
1世 南隣禪松
延宝6年(1678)10月12日亡
2世 大胸祖滿
宝永2年(1705)10月14日亡
3世 大秀玄智
正徳2年(1712)6月28日亡
4世 默室禪宜
元文3年(1738)5月17日亡
5世 北巖玄竺
延享4年(1747)7月5日亡
再中興
6世 希岳祖廉
宝暦13年(1763)2月24日亡
7世 定岳祖禪
天明5年(1785)7月7日亡
8世 大方禪珠
文化2年(1805)2月3日亡
9世 容道禪興
文化14年(1817)3月25日亡
10世 中寳文晢
安政4年(1857)10月8日亡
11世 祖恩
慶応4年(1868)5月29日亡
12世 全理
蟠龍寺の廃寺は、明治初年、12世全理が姫栗村長増寺(現在の恵那市笠置(かさぎ))から着任して間もなくのことでした。そのころは、神仏分離令が布告され、ようやく廃仏の声がやかましくなっていました。
あるとき、村の若者たちがいたずらに「穢(けが)れの者これより外に出るべからず」と大書した高札を寺の門前に立てました。全理は勝気な僧でしたので、早速「俗人の輩(やから)みだりに聖境へ入るべからず」と逆襲しました。このようなことが、だんだん村の人々の反感を買うようになり、全理は遂に寺を去ってしまいました。
こうして蟠龍寺は、藩庁からの廃寺帰俗の申し渡しを待たないで、事実上終焉(しゅうえん)を告げました。明治3年9月27日、廃寺の届出のあった領内15か寺の中に蟠龍寺の名前が見られないのはこのためです。
廃寺のときの蟠龍寺の所有地は、宅地が1反歩ほどと3人が生活できるほどの田畑、山林がありました。建物は6間×13間で、外に土蔵もありました。
本堂は飛騨高山へ売却し、祠堂(しどう)の位牌などは焼却しました。土地や什器(じゅうき)諸道具などは地元の世話方5人に売り渡しました。その代金は、15両を蟠龍寺の永代祭祀(えいたいさいし)料として前記の5人に渡し、残りは旧檀家であった7か村へ分配しました。
大般若経百巻のうち50巻と過去帳8冊は、藩役人の目を逃れて柏本の神職元安正院こと安江五郎正朝の家へ移されました。
それから時が過ぎて明治20年ごろ、野上正伝寺(しょうでんじ)(現在の八百津(やおつ)町和知(わち))の先住が蟠龍寺の再興を企図し、有志とともに2間×3間の小堂を建てましたが、暴風のために倒壊してしまい、とうとうその目的を達することができませんでした。
また、寺の大門先に建てられていた名号塔、庚申(こうしん)塔などは、廃寺以来倒されたまま放置されていましたが、大正7年(1918)、五加下野銅山の監督として大阪から出張して来ていた安川憲の発願で元の参道わきに建て直されました。
これらの石塔は、歴代住職の墓塔、敷地の石積みなどと共に、今もなお、寺屋敷跡の雰囲気を静かに漂(ただよ)わせています。