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左義長(さぎっちょ)
左義長は1月15日、すなわち小正月の行事です。
東白川村では、昔から正月の楽しい行事として続いていました。太平洋戦争後は、山林緑化のため門松を廃止し、門松の絵を印刷した短冊形の紙を玄関の柱に貼って代用した時期があり、その期間は左義長が行われませんでした。その後、復活しましたが、小学生が中心になるため、登校の都合もあって、期日は、1月7日前後であったり、15日前後の土曜日であったり、地域によって一定していません。その上、規模も小さくなりました。
左義長は、もと「三毬杖(さぎじょう)」といいました。毎年1月15日と18日に、宮中の清涼殿(せいりょうでん)の東の庭に青竹を束ねて立て、これに、昔の遊戯の1つである毬(まり)打ちの杖(つえ)、すなわち毬杖(ぎじょう)を3本結び、それに、天皇の吉書(きっしょ)(かきぞめ)や短冊(たんざく)、扇子などを添えて、陰陽師に焼かせたことから、名付けられたといいます。
一般には、近くの人々が、すでに7日ごろ取り払って保存してある正月の門松や注連(しめ)飾り、書き初めなどを持ちよって焼く「正月送り」の火祭りです。
各地には「どんど」「どんど焼き」「さいと焼き」「三九郎」「若火」などという名称があります。共通していえることは、年神がこの煙に乗って帰るという考え方です。
東白川村での左義長は、太平洋戦争ごろまでは、小学校の高等科の生徒が中心になり、それに初等科(尋常科)高学年の児童も加わって、1月14日と15日の2日がかりで行いました。その場所は、火災予防のため、人家や立ち木などの燃えやすい物からなるべく離れた田の中や川原などを選びました。 まず14日は、あらかじめ前年のうちに準備した薪(たきぎ)や藁などの燃料を、左義長を行う場所に集め、左義長の芯(しん)にする太く長い猛宗(もうそう)竹を切って運びこみます。そして、各家庭を回って、門松や注連飾り、書き初めなどを集めます。門松などは注連縄で括(くく)り、道路を引っ張って運びました。午後になると、左義長づくりを始めます。太い竹に書き初めを吊(つる)して立て、万国旗などをつけた縄を四方に張って倒れないようにします。その根元のところに、薪や藁などの燃料を、注連縄で結わえながら、こんもり山になるように積み上げます。形が仕上がると、今度はそれに松を丹念に挿して、緑鮮やかな左義長の出来上りです。
左義長に火を入れるのは15日の夜ですから、こうして作った左義長は、一昼夜保存しなければなりません。当時は、他の集落で作られた左義長の張り綱を切ったり、まだ時間が来ていないのに火をかけたりして、他の左義長の人たちが困るのを喜ぶ風習がありました。だから、せっかく作った左義長を壊されてはたまりませんので、14日の夜は、左義長の近くに臨時の「左義長小屋(さぎっちょごや)」を作り不寝番をしました。
14日に左義長が仕上がらなかったときは、15日も作る作業を続行しました。子供たちは夕方まで左義長が壊されないように監視を続けました。
やがて15日も暮れて、あたりが夕闇に包まれるころ左義長に火が入り、勢いよくどんと燃え上がります。竹が積み込んであるのでポン、ポン、と激しく音を立ててはじけます。「どんどこ火のさぎっちょ、餅のこげょ持ってこい」などとはやしながら、子供も大人も時を忘れて楽しみました。
左義長には、この火で焼いた餅を食べたり、たばこにその火をつけて吸うと、1年中病気にかからないとか、この火にあたると長生きするとか、燃えさしの木片や灰を家の周りにまくと虫よけ蛇よけになるとか、書き初めが火にあおられて高く上がれば上がるほど、習字が上達するなどとういう俗信があります。