史跡
境谷(さかいだに)処刑場
指定番号 東白川村指定史跡第3号
指定年月日 昭和51年(1976)6月1日
所在地 東白川村神土字境谷3204番4
所有者 山口幸之丞
向かって左の名号塔
向かって右の名号塔
植物
指定年月日 昭和51年(1976)6月1日
所在地 東白川村神土字境谷3204番4
所有者 山口幸之丞
形状等 | 面積 74.29平方メートル |
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年代 | 享保12年(1727) |
墓塔 | 石塊を積み上げた中央に銘文の刻まれない自然石の墓石が立つ |
高さ | 40センチメートル |
幅 | 30センチメートル |
向かって左の名号塔
銘文 | 南無阿弥陀佛 |
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高さ | 50センチメートル |
幅 | 28センチメートル |
向かって右の名号塔
銘文 | 南無阿弥陀佛 |
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高さ | 42.5センチメートル |
幅 | 21センチメートル |
植物
墓塔の南 | アカマツ1本 |
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樹高 | 13メートル 直径23センチメートル |
墓塔の東 | アカマツ1本 |
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樹高 | 25メートル 直径45センチメートル |
墓塔の西 | ヒノキ1本 |
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樹高 | 20メートル 直径23センチメートル |
墓塔の南東 | ハナノキ3本 |
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樹高 | 各10メートル |
近世の農民にとって林野は、生活資材、肥料、秣(まぐさ)などの供給源及び用水源として欠くことのできないものであったが、その利用形態は、制度的に明確な規定はなく、一般的に入会(いりあい)の形が多かった。それが御立山の設定や新田開発が行われるようになると、地域的に林野の面積が追いつめられ、利用状況に変革が起こった。こうして、林野の所有権、利用権、境界等をめぐる争いが多く発生するようになった。これらの争いを「山論」という。
境谷処刑場にまつわる享保(きょうほ)の山論は、足かけ4年の間争って、ついに実らず、主謀者2人が境谷で斬(ざん)首されて終結するという悲しい事件であった。
そもそもこの山論は、享保9年(1724)6月、中谷栃(とち)木洞の草刈り入会権をめぐって東組神付(じんづき)と西組との間に争論が起きたことに始まる。西組頭(かしら)太兵衛は、神土村庄屋新右衛門に争論の裁定を訴え出た。しかし、庄屋は山見分(けんぶん)もせず、一向に裁断をしようとしないので、しびれを切らした東組頭清右衛門が代官原五郎右衛門に苦衷を訴えた。代官から詰問された庄屋は、詫(わ)びを入れて事件を貰い下げた。そして、惣(そう)百姓を集めて評議したが、東組の1村総入会の主張と、「古来のとおり組切り山にしてほしい」という平(たいら)組の申し出で衆議は紛糾した。以後、なぜか問題解決がなされないまま、いたずらに日が過ぎた。
明けて天保10年(1725)4月1日、平組捨薙(すてなぎ)洞で肥(こやし)灰を焼いていた東組の百姓文六郎、与十郎、与吉、銀八郎は、平組から「ここは先年から平組の囲い山にした。灰を焼くな。」と入会を拒まれた。東組の者は、前年の代官の口上決裁や昔からの入会地であることなどを理由に庄屋に掛け合ったが、らちが明かなかった。やむなく東組頭清右衛門は、同年6月17日、再び代官原五郎右衛門に越訴(おつそ)した。しかし、この訴えは、総入会を証する書類がないことその他の理由で、東組の全面敗訴となった。その結果、東組頭清右衛門は、北方10か村追放を申し渡されて切井(きりい)村へ落ち、他の東組の者も全員が地替、追放、過料の処分を受けた。
追放された元東組頭清右衛門は納まらず、その年の12月、神付(じんづき)組銀右衛門、黒岩組円八郎と出府し、それぞれの訴状で江戸芝藩邸の遠山左兵衛へ提訴した。だが、あくる年の判決は、庄屋側の「神土(かんど)村草山組切り証文」がものをいって、前回と同じように東組の敗訴であった。出訴した3人は入牢、銀八郎、弥兵衛の2人は手鎖となり、入牢費用は、東組42人とその家族で負担することが義務づけられた。
2人の手鎖は間もなく解かれたが、苦衷に耐えかねた東組42人は、享保11年(1726)6月、再審を請求した。だが、この訴状に押印しなかった者が15人あり、代官に訴訟に加わる意志のないことの口上をとられ、一党から脱落した。藩は、これを機に、牢舎入りの3人を放免し、別に新たな処分を行うなどして懐柔策をろうし、この訴訟の決着を図った。
その年12月、庄屋は「村掟(おきて)」を作成して惣百姓の調印を求めた。この調印は年末恒例のものであったが、その最後に宝永元年(1704)の「神土村草山組切り証文」の追認条項1か条が追加されていたため惣百姓123人中106人は押印したが、17人は調印を拒み、あくまで初志を貫徹しようとした。
享保12年(1727)6月、17人のうち金兵衛、磯右衛門、平四郎の地替が言い渡され、他の者も順次地替されることが伝わると、この17人は、1か所へまとめての地替を願いでたが許されなかった。
同年7月4日、17人と村役人に苗木出頭が命ぜられた。庄屋、組頭は、直ちに苗木へ出発した。しかし、17人は、命令を無視して江戸に向かうため、深夜の濃信国境を鳥屋峠から木曽瀧越(長野県王滝村)へと急いだ。どこまでも初志を貫こうとしたのである。しかし、彼らは、江戸に着いたものの、空しくも捕らえられ、「藩の呼び出しに背いた罪」で苗木に護送された。そして訴状に対する理非曲直が裁かれないまま、それぞれ苛酷な刑に処された。すなわち、磯右衛門、平四郎の2人は、同年8月21日、境谷で斬首された。伝えによると、常楽寺の住職は、2人の助命を苗木藩に嘆願し、奉行の助命の内意を得たが、処刑場へたどりつく暇(いとま)がないまま、時刻の違いで処刑は終わったという。残る17人の家族は、取り払いにあい、田畑家屋敷、その秋の収穫米などすべてを没収されて、それぞれの身寄りを頼って落ちていった。
事件鎮静後、後任の庄屋源五郎は、中通組へかげ山を、神付組へ中谷山の一部をそれぞれ用捨山(自由に出入りを許す山)として与えた。
境谷処刑場は、最低限の生活権の確保のために、時の政治に果敢にそして執拗(しつよう)に立ち向かった農民の歴史の跡であり、江戸中期の農民の生活を想起する上でも大切な東白川村の歴史遺産である。
境谷処刑場にまつわる享保(きょうほ)の山論は、足かけ4年の間争って、ついに実らず、主謀者2人が境谷で斬(ざん)首されて終結するという悲しい事件であった。
そもそもこの山論は、享保9年(1724)6月、中谷栃(とち)木洞の草刈り入会権をめぐって東組神付(じんづき)と西組との間に争論が起きたことに始まる。西組頭(かしら)太兵衛は、神土村庄屋新右衛門に争論の裁定を訴え出た。しかし、庄屋は山見分(けんぶん)もせず、一向に裁断をしようとしないので、しびれを切らした東組頭清右衛門が代官原五郎右衛門に苦衷を訴えた。代官から詰問された庄屋は、詫(わ)びを入れて事件を貰い下げた。そして、惣(そう)百姓を集めて評議したが、東組の1村総入会の主張と、「古来のとおり組切り山にしてほしい」という平(たいら)組の申し出で衆議は紛糾した。以後、なぜか問題解決がなされないまま、いたずらに日が過ぎた。
明けて天保10年(1725)4月1日、平組捨薙(すてなぎ)洞で肥(こやし)灰を焼いていた東組の百姓文六郎、与十郎、与吉、銀八郎は、平組から「ここは先年から平組の囲い山にした。灰を焼くな。」と入会を拒まれた。東組の者は、前年の代官の口上決裁や昔からの入会地であることなどを理由に庄屋に掛け合ったが、らちが明かなかった。やむなく東組頭清右衛門は、同年6月17日、再び代官原五郎右衛門に越訴(おつそ)した。しかし、この訴えは、総入会を証する書類がないことその他の理由で、東組の全面敗訴となった。その結果、東組頭清右衛門は、北方10か村追放を申し渡されて切井(きりい)村へ落ち、他の東組の者も全員が地替、追放、過料の処分を受けた。
追放された元東組頭清右衛門は納まらず、その年の12月、神付(じんづき)組銀右衛門、黒岩組円八郎と出府し、それぞれの訴状で江戸芝藩邸の遠山左兵衛へ提訴した。だが、あくる年の判決は、庄屋側の「神土(かんど)村草山組切り証文」がものをいって、前回と同じように東組の敗訴であった。出訴した3人は入牢、銀八郎、弥兵衛の2人は手鎖となり、入牢費用は、東組42人とその家族で負担することが義務づけられた。
2人の手鎖は間もなく解かれたが、苦衷に耐えかねた東組42人は、享保11年(1726)6月、再審を請求した。だが、この訴状に押印しなかった者が15人あり、代官に訴訟に加わる意志のないことの口上をとられ、一党から脱落した。藩は、これを機に、牢舎入りの3人を放免し、別に新たな処分を行うなどして懐柔策をろうし、この訴訟の決着を図った。
その年12月、庄屋は「村掟(おきて)」を作成して惣百姓の調印を求めた。この調印は年末恒例のものであったが、その最後に宝永元年(1704)の「神土村草山組切り証文」の追認条項1か条が追加されていたため惣百姓123人中106人は押印したが、17人は調印を拒み、あくまで初志を貫徹しようとした。
享保12年(1727)6月、17人のうち金兵衛、磯右衛門、平四郎の地替が言い渡され、他の者も順次地替されることが伝わると、この17人は、1か所へまとめての地替を願いでたが許されなかった。
同年7月4日、17人と村役人に苗木出頭が命ぜられた。庄屋、組頭は、直ちに苗木へ出発した。しかし、17人は、命令を無視して江戸に向かうため、深夜の濃信国境を鳥屋峠から木曽瀧越(長野県王滝村)へと急いだ。どこまでも初志を貫こうとしたのである。しかし、彼らは、江戸に着いたものの、空しくも捕らえられ、「藩の呼び出しに背いた罪」で苗木に護送された。そして訴状に対する理非曲直が裁かれないまま、それぞれ苛酷な刑に処された。すなわち、磯右衛門、平四郎の2人は、同年8月21日、境谷で斬首された。伝えによると、常楽寺の住職は、2人の助命を苗木藩に嘆願し、奉行の助命の内意を得たが、処刑場へたどりつく暇(いとま)がないまま、時刻の違いで処刑は終わったという。残る17人の家族は、取り払いにあい、田畑家屋敷、その秋の収穫米などすべてを没収されて、それぞれの身寄りを頼って落ちていった。
事件鎮静後、後任の庄屋源五郎は、中通組へかげ山を、神付組へ中谷山の一部をそれぞれ用捨山(自由に出入りを許す山)として与えた。
境谷処刑場は、最低限の生活権の確保のために、時の政治に果敢にそして執拗(しつよう)に立ち向かった農民の歴史の跡であり、江戸中期の農民の生活を想起する上でも大切な東白川村の歴史遺産である。
顕彰碑
銘文
高さ 116センチメートル
幅 68センチメートル
(表) | 境谷殉難之地 |
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(裏) | 義民此地に斃れてよりに二百五十余年、その余沢を享けし神付組子孫今その地を顕す。享保十年四月山論起きるや神付の窮状いわん方なく一村入会の旧慣に復せんと嘆願出訴を繰返すも遂に成らず 加うるに弾圧日々に強し、同十二年七月同志十七人最后の江戸出訴をなす。之を捕えてその理非曲直を糾さず首謀者を此地に斬首す。時に享保十二年八月二十一日。磯右エ門四十六才。平四郎五十二才なり |
高さ 116センチメートル
幅 68センチメートル
境谷事件年表
享保9年6月 | 中谷栃木洞の草刈り入会権を巡って東組神付と西組との間に争論が起きた。これがそもそもの事件の発端となった。 |
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7月 | 東組頭清右衛門は、代官原五郎右衛門に苦衷を訴えたが庄屋に下げ渡されて解決にならなかった。 |
10年4月 | 捨薙洞の入会権を巡って東組と平組との間に対立が起きた。 |
6月 | 東組の訴えに対し、庄屋が取り合わないので東組頭清右衛門は、再び代官原五郎右衛門に越訴したが全面敗訴となった。 |
7月 | 東組頭清右衛門が北方10か村追放になるなど東組全員が処罰を受けた。 |
12月 | 追放中の元東組頭清右衛門ら3人が江戸芝藩邸遠山左兵衛に提訴した。 |
11年3月 | 苗木において裁判が行われ、出訴人3人が入牢と決まった。 |
6月 | 東組42人が再審を請求した。 |
7月 | 藩は、訴訟人代表と村役人を苗木に呼び出し、訴状に対する懐柔策を示した。 |
11月 | 藩は、入牢中の3人を放免し、同時に地替えなど他の処分を行った。 |
12月 | 庄屋は、「村掟」を作成して惣百姓の調印を求めたが、17人がそれを拒否した。 |
12年6月 | 平四郎ら17人が一括地替えを願い出たが許されなかった。 |
7月 | 17人と村役人とに対し、苗木藩から出頭命令が出た。 17人は、命令に背き、ひそかに江戸へ直訴に向かうが空しく捕えられた。 |
8月 | 17人は、神土村に護送され、平四郎と磯右衛門は斬首に、他は、それぞれ追放となった。 |