カテゴリメニューはこちら

東白川村の文化財

有形文化財

石戸(いわと)神社社殿

石戸神社社殿の全景

指定番号 東白川村指定有形文化財第1号
指定年月日 昭和51年(1976)6月1日
 
所在地 東白川村五加字妙観寺1224番1
所有者 宗教法人五加神社
形状等  
種類・数量 建造物1棟
品質・形式 総欅三間社流造
妻2間、檜皮葺
建面積 17.63平方メートル
建造年代 貞亨元年(1684)
敷地面積 73.09平方メートル
(南北8.64メートル 東西8.45メートル)
 石戸(いわと)神社は、「石戸神社略記」(別項)にもあるように、もと九頭(くず)大明神と称した。その創建がいつの時代であるかは、つまびらかでない。往古、近くを流れる白川の氾濫(はんらん)で水害に悩んだ農民たちが、被害を防ぐため土石を盛り、堤防を築き、樹木を植え、祠(ほこら)を建てて平安を祈った。

 社殿は、天正元年(1573)に火災に遭い焼失したが、翌天正2年(1574)、真言宗(一説に天台宗ともいわれる。)妙観(みょうかん)寺が願主となって再建された。棟札(むなふだ)も残っており、由緒は古い。

 ちなみに妙観寺は、石戸神社から南へおよそ100メートルの地点に建立されていたが、別当安江常清入道政近が関ヶ原の合戦に従軍中焼失し、政近も討ち死にして、寺は断絶した。

 その後、慶長18年(1613)に三たび建て替えられ、さらに貞享元年(1684)に四たび建立されたのが現在の社殿である。一部改修が、享保3年(1718)と同9年(1724)にそれぞれ行われただけで、現在まで大改修は行われなかったようである。

 明治元年(1868)、九頭大明神は石戸神社と改称した。そして時は流れて昭和35年(1960)11月、五加の各集落の神社5社が合併することとなり、石戸神社の祭神は、合併後の五加神社に合祀(ごうし)された。

 石戸神社社殿は、現在、五加神社の宮代遥拝(みやしろようはい)所とされている。

 東白川村では最も古い建造物である。

北側からみた社殿

構造
 石戸神社社殿は、総欅(けやき)三間社流造(ながれづくり)、妻2間、檜皮(ひわだ)葺(ぶ)きである。正側3面に縁高欄を巡らす。登(のぼり)高欄の上には擬宝珠(ぎぼし)柱がある。縁の行きどまりに脇(わき)障子を置く。木階は、7級である。庇(ひさし)柱は、几(き)帳面取角柱で、柱間虹梁(こうりょう)は端象鼻となる。斗栱(ときょう)は、出三斗(でみつど)、手鋏(てはさみ)つきで、両端柱では手鋏の代わりに海老(えび)虹梁を入れて主屋柱頂につなぐ。主屋円柱、縁長押(えんなげし)、内法(うちのり)長押、頭貫(かしらぬき)、端木鼻(はなきはな)を巡らし、は、平(ひら)三斗、妻虹梁には大瓶束(たいへいつかが立ち、軒は後補で、一軒吹寄垂木(いっけんふきよせたるき)である。正面戸口には、上下に半長押を加え、両開きの板唐戸(いたからと)がある。内部は一室になり、桁(けた)上に桿縁(さおふち)天井を張る。岐阜県下では簡素な社殿であるが、絵様(えよう)に若葉を太く派手につかっているのが目立つ。

柱上のくみもの

構造に関する用語の手引き
◆三間社(さんげんしゃ) 神社の本殿で、正面の柱が3間あるもの。

◆流造(ながれづくり) 神社の本殿形式の一種。切妻造平(きりづまづくりひら)入りの前流れの屋根が長く延びて向拝の屋根となる。本殿柱は円柱。向拝柱は、面取角柱。桁行(けたゆき)すなわち間口は1間ないし3間。梁間(はりま)すなわち奥行は1間または2間。庇すなわち向拝は1間通り。土台上に浜床(はまゆか)があり、階段上には母屋床(もやゆか)がある。

◆妻(つま) 建物の正面を平(ひら)というのに対して側面をいう語。棟(むね)と直角の側面。

◆高欄(こうらん) 手摺(てすり)のこと。社寺や宮殿では形式の整ったものを用い、匂欄、鉤欄ともいう。

◆登高欄(のぼりこうらん) 階段の両わきにつけた勾配(こうばい)のある高欄

◆擬宝珠柱(ぎぼしばしら) 如意宝珠(にょいほうじゅ)の形に似せて作った飾りのある高欄や橋などの親柱。

◆脇障子(わきしょうじ) 社殿建築に多く見られる縁の行きどまりにある障子。社殿左右側面の前後部を区画するところに立てた仕切りで、固定した衝立(ついたて)である。縁束上に柱を立て、側柱に沿って立てた柱との間に冠木(かぶき)すなわち笠木(かさぎ)を渡して、上部を竹の節欄間とし、柱間を板羽目とする。外側の竹の節上には繋(つなぎ)を立て軒に取り付ける。

◆庇柱(ひさしばしら) 神社や寺院の正面の屋根が前に張り出した部分すなわち向拝を支える柱。

◆几帳面取角柱(きちょうめんとりかくばしら) 稜角を丸く落し、両側に刻み目を入れた角柱。

◆虹梁(こうりょう) 虹(にじ)のように上方にやや反りを持たせてある梁(はり)。

◆斗栱(ときょう) 柱の上にあって構架を支える組み物。斗(ます)と(ひしき)とからなる。「ますぐみ」、「ますがた」、「くみもの」、「とぐみ」などという。

◆出三斗(でみつど) 平(ひら)三斗を前後左右に直角に交差させたもので、肘木(ひじき)は、十字形となる。

◆海老虹梁(えびこうりょう) 高さの差のある二本の柱をつなぐエビのように弓形に湾曲した虹梁。蝦虹梁とも書く。

◆縁長押(えんなげし) 縁のある建物で、柱の外側の縁のすぐ上に取り付けた長押。

◆内法長押(うちのりなげし) 鴨居(かもい)または無目(むめ)の上や窓の上の長押。

◆頭貫(かしらぬき) 柱頭に溝を掘り(わなぎぼりという。)それに落とし込んだ、すなわち、わなぎ込んだ横木、柱と柱をつなぎ、構造を固定するもので最も古くからある貫。

◆木鼻(きばな) 鼻は端という意味で、頭貫、虹梁、肘木など横木の先端が柱を越えて出たものに、彫刻または絵様を施したもの。形態は多様で変遷も著しく、古建築の時代推定の素材となる。

◆平三斗(ひらみつど) の三斗組の前後に出ないもので、平面は一文字となる。

◆大瓶束(たいへいづか) 構架の大虹梁上に立てる束。胴膨らみの円筒形が能楽の猩々(しょうじょう)に用いる作り物の「大瓶」に似ていることからきた名であろうという。後世のものは下端が虹梁の腹に垂れ下がって、結綿(ゆいわた)または綿花(わたばな)と呼ばれる彫刻となる。

◆桿縁天井(さおぶちてんじょう) 天井板を受ける形で支える細木に直角の方向で天井板を並べた天井。

◆絵様(えよう) 彫刻を用いず、渦や若葉など曲線で飾ったもの。


石戸(いわと)神社略記(これは、木板に書いて社殿正面の軒先に掲げられているものである)
當石戸神社は、古昔此地河水氾濫人ニ安處せざりしが決潰の衝ニ方りて奇しき石の底津磐根より生ひ出る如く聳え立てるを神位と崇め、土石を盛り、樹木を栽え、祠宇を建て、手力男命、八意思兼命、宇受賣命3柱を招奉り産土大神と齋ひ奉りしかば、復河水氾濫の患ひ絶えて無く、人ニ能く安處し、家業をいそしみしと云ふ。今域内神社の巽ニ雲を拂ひ霄を凌げる古杉1株は、當初植樹の遺存なるべし。扨文明年間真言僧安江某社に妙観寺を建立し別当となり、祭神を九頭大明神と稱へ奉れり。尓後安江氏別當たること7世にして常清入道政近ニ至り森武州ニ属し、関ヶ原役ニ従軍をし留間妙観寺炎上社宇類焼して旧記盡く焼失し、方今考證すへき記録断簡片紙も存するもの無し。故ニ慶長以前の事蹟は一ニ口碑所傳也。その後は貞享元年現祠宇再建まで80餘年間ならず。回録の際神位中断して基部のみ在す。神位直上殿床を切り開き殿内に通する様式となし来れり。抑當社ハ今より200年前後の昔は河東郷之總社にして享保寛保など御社宇修繕之時ハ其財用現時の東白川、佐見、黒川3ヶ村及西白川、蘇原2ヶ村の一郡ニ互りて醵出せり、旦又本社紋章ニ二引龍を附け来れるに徴し、往時藩主遠山家の崇敬は尋常一般ならざるを見るへし。然ていつの頃よりかおのづから宮代村僅10数戸の崇敬社となれり。明治維新の際御神名社名を復古せり、寛保以来10回の修繕を加え奉れども凡250の年所を経れバ頗朽損せり。依て明治14年假りニ覆屋根を造り社宇の保存を計る。同40年覆屋根葺替の際末社八幡神社、風神々社、愛宕神社、山神々社を合祠し奉れり。ニ昭和4年秋日崇敬者相議りて覆屋根を取り除き修復し奉り、聊敬神の微衷を表し奉る云々
昭和4年11月13日

※クリックで写真を拡大いたします。

このページをSNSに共有する

ページの先頭に戻る

文字サイズ

色の変更

閉じる