史跡
四つ割の南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)碑
指定番号 東白川村指定史跡第1号
指定年月日 昭和51年(1976)6月1日
所在地 東白川村神土字平548番
所有者 東白川村
寸法(台座を除く)
指定年月日 昭和51年(1976)6月1日
所在地 東白川村神土字平548番
所有者 東白川村
寸法(台座を除く)
高さ | 250センチメートル |
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幅 | 77センチメートル |
奥行 | 50センチメートル |
年代 | 天保6年(1835) |
銘文 | (正面) 南無阿弥陀仏 (向かって右側) 天保六乙未年七月日建之也 (向かって左側) 雲林寺十五世遂安謹書 (裏面) 神戸弥助正辰 (花押) 施主人 伊藤爲平盛豊 (花押) 現常樂十世祖來代 服田喜三太正命 (花押) |
この名号塔は、天保6年(1835)7月、神戸弥助政辰(かんべやすけまさとき)、伊藤為平盛豊(いとうためへいもりとよ)、服田喜三太正命(はつたきさんたまさな)の3人が施主となり、飢饉(ききん)、悪疫等に対する祈願と犠牲者の供養のため、かつての常楽(じょうらく)寺の山門わきに建立したものである。
塔の石の材質は、濃飛流紋岩類(のうひりゅうもんがんるい)(俗に青石という。)で、神土長瀞(かんどながとろ)付近の白川で採取したものという。(別記のとおり)
刻まれた6字の名号は、当時の苗木(なえぎ)の城主遠山家の菩提(ぼだい)寺雲林寺の住職遂安の筆になるもので、1字の大きさは、米1升(約1.8リットル)が入るといわれ、近郷の善男善女からは「ごいっしょうさま」と崇められた。石工は信州伊那郡高遠(たかとお)村(長野県)の伝蔵で、常楽寺に滞在し、約半年で完成させた。雄渾な筆勢は、他にその比を見ない。石工手間延100人余りを費やし、その費用は、手間賃4両3分3匁、外に酒代3両1分2朱、その他合計9両1分余りであった。
明治3年(1870)苗木藩が強行した廃仏毀釈(きしゃく)の嵐は、この塔にも及んだ。藩役人から「塔をこわせ」という命令が出ると、急拠もとの製作者伝蔵が呼び寄せられ、取りこわしに当たることとなった。伝蔵は、後世に期するところがあったのか、この塔を打ち砕いてしまわず、節理に従って見事に縦4つに割ったのである。4つ割にされた碑は、付近の池や畑の脇石あるいは踏石として名号を伏せて積み込まれた。また台石は、現在の東白川村役場前東南隅(すみ)の角石とされた。
塔の石の材質は、濃飛流紋岩類(のうひりゅうもんがんるい)(俗に青石という。)で、神土長瀞(かんどながとろ)付近の白川で採取したものという。(別記のとおり)
刻まれた6字の名号は、当時の苗木(なえぎ)の城主遠山家の菩提(ぼだい)寺雲林寺の住職遂安の筆になるもので、1字の大きさは、米1升(約1.8リットル)が入るといわれ、近郷の善男善女からは「ごいっしょうさま」と崇められた。石工は信州伊那郡高遠(たかとお)村(長野県)の伝蔵で、常楽寺に滞在し、約半年で完成させた。雄渾な筆勢は、他にその比を見ない。石工手間延100人余りを費やし、その費用は、手間賃4両3分3匁、外に酒代3両1分2朱、その他合計9両1分余りであった。
明治3年(1870)苗木藩が強行した廃仏毀釈(きしゃく)の嵐は、この塔にも及んだ。藩役人から「塔をこわせ」という命令が出ると、急拠もとの製作者伝蔵が呼び寄せられ、取りこわしに当たることとなった。伝蔵は、後世に期するところがあったのか、この塔を打ち砕いてしまわず、節理に従って見事に縦4つに割ったのである。4つ割にされた碑は、付近の池や畑の脇石あるいは踏石として名号を伏せて積み込まれた。また台石は、現在の東白川村役場前東南隅(すみ)の角石とされた。
こうして、村内に吹き荒れた廃仏の嵐も収まり、事件は過去の語り草として人々の記憶から遠ざかっていった。
昭和年代に入って、日本が激動期の波に揺られ、人心も生活不安にかられていたころ、村内に悪疫が流行し、不幸が続出した。だれ言うとなく「石仏埋没のたたり」といううわさが流れた。これが動機となって、昭和10年(1935)神土平(たいら)天祐館医師安江浩平(こうへい)(飛騨竹原出身)の主唱により、当時の消防組の指導者を中心とした平(たいら)地区在住の壮年14人が世話人となり、四散した石材を集めて現在地に再建したものである。鋼板に刻んだ大碑石再建立誌及び森牧聞和尚の再建供養詩の碑が近くに建っている。(別項)今でも毎年8月15日には平地区住民の手によって盂蘭盆(うらぼん)の供養が続けられ、年じゅう供花が絶えない。
この塔は、廃仏毀釈がいかに厳しく徹底して行われたかを最も顕著にもの語る証拠物としてその歴史的価値が高い。
昭和年代に入って、日本が激動期の波に揺られ、人心も生活不安にかられていたころ、村内に悪疫が流行し、不幸が続出した。だれ言うとなく「石仏埋没のたたり」といううわさが流れた。これが動機となって、昭和10年(1935)神土平(たいら)天祐館医師安江浩平(こうへい)(飛騨竹原出身)の主唱により、当時の消防組の指導者を中心とした平(たいら)地区在住の壮年14人が世話人となり、四散した石材を集めて現在地に再建したものである。鋼板に刻んだ大碑石再建立誌及び森牧聞和尚の再建供養詩の碑が近くに建っている。(別項)今でも毎年8月15日には平地区住民の手によって盂蘭盆(うらぼん)の供養が続けられ、年じゅう供花が絶えない。
この塔は、廃仏毀釈がいかに厳しく徹底して行われたかを最も顕著にもの語る証拠物としてその歴史的価値が高い。
天保七丙申年二月出來
南無阿弥陀佛
金三兩壱分弐朱弐匁五分
酒屋四人肴代
金四兩三分三匁 石屋傅藏上日百六人ちん銀
金壱分壱朱 苗木雲林寺樣御禮ニ遺候
金壱分 常樂寺御禮
金壱分 常樂寺へ地料上ル
弐匁五分 同寺風呂有御禮
三朱ト三匁□分 石屋爲藏三人等ちん銀共
〆金九兩壱分三匁三分五厘入用
大佛之石は釜淵前堰之上之川に有之候 親田日雇神戸材木川狩の節代人忠左衞門と申者棟梁ニ而引申候 材木十五六本敷材と致候 新巣より仕出候也 下屋定右衞門出火ニ而家を普請致候時右材木へいたし申候
註 …・・・ 上日(じょうび)106人=名号塔を彫るのに1人に換算して106日かかったという意。
大佛=名号塔のこと。
=栂(つが)の角材。
南無阿弥陀佛
金三兩壱分弐朱弐匁五分
酒屋四人肴代
金四兩三分三匁 石屋傅藏上日百六人ちん銀
金壱分壱朱 苗木雲林寺樣御禮ニ遺候
金壱分 常樂寺御禮
金壱分 常樂寺へ地料上ル
弐匁五分 同寺風呂有御禮
三朱ト三匁□分 石屋爲藏三人等ちん銀共
〆金九兩壱分三匁三分五厘入用
大佛之石は釜淵前堰之上之川に有之候 親田日雇神戸材木川狩の節代人忠左衞門と申者棟梁ニ而引申候 材木十五六本敷材と致候 新巣より仕出候也 下屋定右衞門出火ニ而家を普請致候時右材木へいたし申候
註 …・・・ 上日(じょうび)106人=名号塔を彫るのに1人に換算して106日かかったという意。
大佛=名号塔のこと。
=栂(つが)の角材。
大碑石再建立誌
此の地往昔天正年間に開山せる安泰山常樂寺あり 神土越原一円を壇徒となし明治三年九月迄凡そ二百九十余年年間存續せしものなり の碑そは常樂寺山門にありしものにして 古老の言によれば再建せる現在の位置より東方約十間の處にありしものなりと 而して現今の村役場は實に往時常樂寺のありたる箇所なりと説けり
當碑石最初の建立は天保六年七月にして凡そ三十年を経て明治初頭となりに連れて癈佛の声揚り當時苗木縣知事遠山友禄旧領主の命により遂に寺院その他佛法に関する一切の事象は徹底的に滅せられ由って當碑石も四つに割られ台石も離散せられ石片として或は河川池等又は畑の石積み用のものとなりて七十年に埀する歳月を閲し本年に至れるものなり
歳月流れ人心歸して再建の議調ひ平組に事業としてに元の台石に碑石片々運ばれ来りて合すれば即ち旧の一基となる
人皆合掌 當大南無阿弥陀佛碑
昭和十年八月一日 安江浩平撰
佛碑再興 森牧聞和尚作
五裂四分分散了 先人遺徳堕塵埃
再興収拾兒孫手 築出如來上品台
世 話 人
平組長
安江貫一郎
大世話人
安江浩平
會 計
安江八太郎
今井角三郎
安江安之助
服田謹一郎
田口安吉
林 収一
伊藤精吾
安江富之介
島倉政八
澤木興作
神戸一郎
安江仙一
當碑石最初の建立は天保六年七月にして凡そ三十年を経て明治初頭となりに連れて癈佛の声揚り當時苗木縣知事遠山友禄旧領主の命により遂に寺院その他佛法に関する一切の事象は徹底的に滅せられ由って當碑石も四つに割られ台石も離散せられ石片として或は河川池等又は畑の石積み用のものとなりて七十年に埀する歳月を閲し本年に至れるものなり
歳月流れ人心歸して再建の議調ひ平組に事業としてに元の台石に碑石片々運ばれ来りて合すれば即ち旧の一基となる
人皆合掌 當大南無阿弥陀佛碑
昭和十年八月一日 安江浩平撰
佛碑再興 森牧聞和尚作
五裂四分分散了 先人遺徳堕塵埃
再興収拾兒孫手 築出如來上品台
世 話 人
平組長
安江貫一郎
大世話人
安江浩平
會 計
安江八太郎
今井角三郎
安江安之助
服田謹一郎
田口安吉
林 収一
伊藤精吾
安江富之介
島倉政八
澤木興作
神戸一郎
安江仙一