史跡
黒淵(くろぶち)の石造物群
指定番号 東白川村指定史跡第4号
指定年月日 昭和56年(1981)7月24日
指定年月日 昭和56年(1981)7月24日
所在地 | 東白川村越原字黒淵1985番2地先 |
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所有者 | 黒淵組 |
石造物の数 | 4基 |
内訳 | 二十三夜塔 石灯籠 名号塔 馬頭観音 |
所在地の地積 | 132.62平方メートル |
各石造物の形状等
◆二十三夜塔
銘文
寸法
◆石灯籠
竿の部分
基礎の最上段の部分
寸法
◆名号塔
寸法
◆馬頭観音
寸法
信仰の対象となる石造物は東白川村にも多く、各所に散在するが、数種の信仰が同一の場所で行われる例は少ない。そういう意味で、この石造物群は、村の信仰習俗をさぐる貴重な資料である。
◆ 二十三夜のお立ち待ち
この行事は、二十三夜に講中が集まり勤行(ごんぎょう)、飲食を共にし、月の出を待つもので、二十三夜の月待ちという。
病気平癒(ゆ)、無病息災を祈って行うものであったが、言い伝えでは、神事的な色彩が極めて濃かったようだ。まず行者の先達で二十三夜塔の前に祭壇を設け、御饌御酒(みけみき)を供えて、講中や家族の者が祈りを捧げた。そして、二十三夜の月が昇るまでは、座ったり、腰掛けたりすることが禁じられたという。夕方から真夜中の2時ころまで立ち続けるのだから、心身の修養になったであろうと古老は言う。
やがて月が昇って、塔の前に膝(ひざ)をついたときは、人々の心にじわじわと広がる安らぎがあった。
◆石灯籠に現れた信仰の習合
各種供養塔の造立は、江戸中期以降で、文化、文政、天保ごろが造塔のピークだといわれる。この石灯籠もその中の1つであろう。
正面に刻まれた「太神宮」は、伊勢講の文字塔に刻まれる神号で、伊勢信仰つまり伊勢神宮の信仰集団か、講員の全員が代参を完了したときなどに記念として造立する碑に刻むものである。
代参者は、天照皇太神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)の両大神宮に詣で、講員の数だけ神札を受けて帰村し、これを全員に配布した。
石灯籠の向かって右側に刻まれた「金毘羅山(こんぴらさん)」は、金毘羅講供養塔である。講員は、一定の日に集まってくじ引きで代参者を決め、その者が代参を行った。帰村後、配札を行うことは、伊勢講と同じである。
向かって左側の「秋葉山」は、秋葉寺内に祀(まつ)られる三尺坊のことで、秋葉山大権現(ごんげん)と呼ばれ、火防鎮護の神として知られる。これも講員が交替で秋葉山に代参し、火災の防止を祈願した。
ちなみに秋葉寺は、明治維新の際の神仏分離令の公布によって、明治5年(1872)火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)を祭神とする秋葉神社となった。
この石灯籠は、信州高遠(たかとお)の石工が制作したと伝えられ、代参だけに頼らず、日常参詣(けい)できるように、異なった信仰の習合として造立されたものである。
昔、この灯籠の前で大きな火をたいて、大勢の人と一心に雨乞(ご)いをしたことがあると、その体験を持つ古老は語った。
◆名号塔と馬頭観音
中国の善導大師は、「南無阿弥陀仏」を称念する者は必ず往生を得ると説いた。名号塔は、村内の各所に散在する。その造立目的は、さまざまで、したがって、この名号塔の造立目的が何であるかは分からない。
名号塔と並んで馬頭観音が建つ。
馬頭観音の造立目的は、牛馬、特に馬の供養と結びつくものが大多数で、併せて無病息災の祈願をこめて建てられたが、時代が下るに従って墓標的な意味を持つものも出現した。だから、馬頭観音は、主として牛馬に関係のある職業の人たちの講集団や個人に信仰されて造立されたものである。
しかし、この地に建つ馬頭観音がどのような目的で、だれが建てたかは知る由もない。
銘文
(正面) | 天保九戊戌年(1838) 二十三夜塔 五月二十三日 |
|
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講中 | ||
(裏面) | 桂川由右エ門 | 安江佐兵衞 |
安江藤四郎 | 安江忠兵衞 | |
安江小吉 | 安江善七 | |
安江善兵衞 | 安江□衞 | |
□□□兵衞 | 安江金七 |
寸法
高さ | 129センチメートル |
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幅 | 47センチメートル |
奥行 | 30センチメートル |
◆石灯籠
竿の部分
(正面) | 太神宮 |
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(向かって右側面) | 金毘羅山 |
(向かって左側面) | 秋葉山 |
(裏面) | 文政五年壬午(1822) 六月吉日 |
基礎の最上段の部分
(正面) | 全安中村 |
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(向かって右側面) | 願主 越原村庄屋 越原雄右エ門 安江清六 安江直次郎 安江小吉 桂川由右エ門 安江文藏 安江弥兵藏 嶋倉治次郎 安江平八 |
(向かって左側面) | 施主 安江弥藤次 彦右エ門 萩七 与三郎 磯平 源右エ門 利助 彦八 種平 惣助 |
(裏面) | 要右エ門 爲八 利藏 良八 龜太郎 龜次郎 金藏 作平 利藏 政太郎 當村中 |
寸法
高さ | 337センチメートル |
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◆名号塔
銘文 | 元文四己未年(1739) 南無阿弥陀佛 九月吉日 |
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寸法
高さ | 108センチメートル |
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幅 | 40センチメートル |
◆馬頭観音
銘文 | なし |
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寸法
高さ | 55センチメートル |
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幅 | 22センチメートル |
信仰の対象となる石造物は東白川村にも多く、各所に散在するが、数種の信仰が同一の場所で行われる例は少ない。そういう意味で、この石造物群は、村の信仰習俗をさぐる貴重な資料である。
◆ 二十三夜のお立ち待ち
この行事は、二十三夜に講中が集まり勤行(ごんぎょう)、飲食を共にし、月の出を待つもので、二十三夜の月待ちという。
病気平癒(ゆ)、無病息災を祈って行うものであったが、言い伝えでは、神事的な色彩が極めて濃かったようだ。まず行者の先達で二十三夜塔の前に祭壇を設け、御饌御酒(みけみき)を供えて、講中や家族の者が祈りを捧げた。そして、二十三夜の月が昇るまでは、座ったり、腰掛けたりすることが禁じられたという。夕方から真夜中の2時ころまで立ち続けるのだから、心身の修養になったであろうと古老は言う。
やがて月が昇って、塔の前に膝(ひざ)をついたときは、人々の心にじわじわと広がる安らぎがあった。
◆石灯籠に現れた信仰の習合
各種供養塔の造立は、江戸中期以降で、文化、文政、天保ごろが造塔のピークだといわれる。この石灯籠もその中の1つであろう。
正面に刻まれた「太神宮」は、伊勢講の文字塔に刻まれる神号で、伊勢信仰つまり伊勢神宮の信仰集団か、講員の全員が代参を完了したときなどに記念として造立する碑に刻むものである。
代参者は、天照皇太神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)の両大神宮に詣で、講員の数だけ神札を受けて帰村し、これを全員に配布した。
石灯籠の向かって右側に刻まれた「金毘羅山(こんぴらさん)」は、金毘羅講供養塔である。講員は、一定の日に集まってくじ引きで代参者を決め、その者が代参を行った。帰村後、配札を行うことは、伊勢講と同じである。
向かって左側の「秋葉山」は、秋葉寺内に祀(まつ)られる三尺坊のことで、秋葉山大権現(ごんげん)と呼ばれ、火防鎮護の神として知られる。これも講員が交替で秋葉山に代参し、火災の防止を祈願した。
ちなみに秋葉寺は、明治維新の際の神仏分離令の公布によって、明治5年(1872)火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)を祭神とする秋葉神社となった。
この石灯籠は、信州高遠(たかとお)の石工が制作したと伝えられ、代参だけに頼らず、日常参詣(けい)できるように、異なった信仰の習合として造立されたものである。
昔、この灯籠の前で大きな火をたいて、大勢の人と一心に雨乞(ご)いをしたことがあると、その体験を持つ古老は語った。
◆名号塔と馬頭観音
中国の善導大師は、「南無阿弥陀仏」を称念する者は必ず往生を得ると説いた。名号塔は、村内の各所に散在する。その造立目的は、さまざまで、したがって、この名号塔の造立目的が何であるかは分からない。
名号塔と並んで馬頭観音が建つ。
馬頭観音の造立目的は、牛馬、特に馬の供養と結びつくものが大多数で、併せて無病息災の祈願をこめて建てられたが、時代が下るに従って墓標的な意味を持つものも出現した。だから、馬頭観音は、主として牛馬に関係のある職業の人たちの講集団や個人に信仰されて造立されたものである。
しかし、この地に建つ馬頭観音がどのような目的で、だれが建てたかは知る由もない。