史跡
播隆の名号塔
指定番号 東白川村指定史跡第7号
指定年月日 平成5年(1993)1月11日
所在地 東白川村越原茅小屋2479番3地先
所有者 大明神組
形状等
指定年月日 平成5年(1993)1月11日
所在地 東白川村越原茅小屋2479番3地先
所有者 大明神組
形状等
寸法 | 高さ 178センチメートル 幅 75センチメートル |
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年代 | 天保6年(1835) |
銘文 | (表面) 南無阿弥陀佛 播隆 花押 (裏面) 天保六年乙未秋八月 安江清九郎 組中
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この塔の銘文は、槍ヶ岳の開祖播隆上人の手になるものであると伝えられる。播隆上人が東白川村に逗留したという記録はなく、上人が美濃から飛騨に向かうときこの村を経由したという記録も存在しない。したがって、どのような経緯でこの銘文が書かれたかは定かでない。あるいは上人が中心となって結んだ念仏講の信者がこの村にいたのかも知れない。ともあれ、独特のたくましい書体と上人の花押が刻まれているところから、銘文が彼の手になるものと類推される。
この塔は、濃飛流紋岩類(青石)の自然石が用いられている。彫り手は、長野県高遠村の石工であると伝えられる。
当時、この地域は凶作が続き、加えて悪疫が流行した。天保6年(1835)8月、越原村大明神安江清九郎が中心となって、村人たちは豊作を祈り、悪疫退散を祈願して、通称弘法屋敷にこの名号塔を建立した。
以来、村人の信仰の的となっていたこの塔は、明治維新の際、他の仏像仏具と共に廃仏毀釈の洗礼を受けることとなった。
「石造物はすべて破壊せよ」という苗木藩の命令に背いて村人は、密かにこの塔を近くの新巣川に、名号を伏せ、渡り石として隠した。
しかし、雨で新巣川が増水するたびに名号が表向きになるので、村人たちは、そっと川岸に引き上げて供養することとした。そして、昭和3年(1928)春、中西孝亮、桂川辰次郎の手で現在地に再建されたのである。この塔は、徹底した廃仏毀釈の施策に対し、村人たちが示したささやかな抵抗を物語る数少ない証拠物の1つである。
この塔は、濃飛流紋岩類(青石)の自然石が用いられている。彫り手は、長野県高遠村の石工であると伝えられる。
当時、この地域は凶作が続き、加えて悪疫が流行した。天保6年(1835)8月、越原村大明神安江清九郎が中心となって、村人たちは豊作を祈り、悪疫退散を祈願して、通称弘法屋敷にこの名号塔を建立した。
以来、村人の信仰の的となっていたこの塔は、明治維新の際、他の仏像仏具と共に廃仏毀釈の洗礼を受けることとなった。
「石造物はすべて破壊せよ」という苗木藩の命令に背いて村人は、密かにこの塔を近くの新巣川に、名号を伏せ、渡り石として隠した。
しかし、雨で新巣川が増水するたびに名号が表向きになるので、村人たちは、そっと川岸に引き上げて供養することとした。そして、昭和3年(1928)春、中西孝亮、桂川辰次郎の手で現在地に再建されたのである。この塔は、徹底した廃仏毀釈の施策に対し、村人たちが示したささやかな抵抗を物語る数少ない証拠物の1つである。
播隆上人
北アルプス・槍ヶ岳の開祖として有名な播隆上人は、天明2年(1782)、越中の国、現在の富山県河内村で生まれ、19歳で出家した。念仏修行を積みながら諸国を行脚し、深山の岩窟を求めて苦行をした。高原郷岩井戸村(現在の上宝村)釈子岩窟にこもったとき、笠ヶ岳登山を決意、文政6年(1823)から始めて、4回に及ぶ登山をした。
槍ヶ岳開山に取り組むようになったのは文政9年(1826)で、苦労の末、槍の肩付近まで登り、2年後初登頂に成功、頂上に阿弥陀三尊を安置した。
以後、約20年間、一般の登山者のため岸壁に鉄鎖を架けるなど槍ヶ岳のために捧げた。
播隆上人は阿弥陀の道を説きながら諸国を行脚したといわれ、美濃加茂市祐泉寺に止宿した記録が残る。また、上宝村村上の村上神社には上人の偉業をたたえる播隆塔がある。
槍ヶ岳開山に取り組むようになったのは文政9年(1826)で、苦労の末、槍の肩付近まで登り、2年後初登頂に成功、頂上に阿弥陀三尊を安置した。
以後、約20年間、一般の登山者のため岸壁に鉄鎖を架けるなど槍ヶ岳のために捧げた。
播隆上人は阿弥陀の道を説きながら諸国を行脚したといわれ、美濃加茂市祐泉寺に止宿した記録が残る。また、上宝村村上の村上神社には上人の偉業をたたえる播隆塔がある。