史跡
一石十三仏塔
指定番号 東白川村指定史跡第6号
指定年月日 平成5年(1993)1月11日
所在地 東白川村神土字平安3571番3地先
所有者 安江 優
形状等
一石板碑1基
指定年月日 平成5年(1993)1月11日
所在地 東白川村神土字平安3571番3地先
所有者 安江 優
形状等
一石板碑1基
寸法 | 高さ 121センチメートル 幅 52センチメートル |
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年代 | 元禄15年(1702) |
銘文 | (向かって右側面) 本願人當村清右衞門 同所鈴原 杢右衞門 奉造立十三佛 加舎尾 助右衞門 小倉 弥兵衞 (向かって左側面) 元禄十五壬午歳 十月十五日 (この下部に「同所庄助、神付由兵衞、加舎尾藤吉」と刻まれていると聞くが、埋まっていて読み取れない。) |
十三仏塔は近在には少なく、特に一石板碑の形態のものは珍しい存在である。
歴史の年輪を語るこの塔は、他の石仏と共に廃仏毀釈の洗礼を受けた。蔵多日記によれば「茶菴堂の道西方ニ建置ありし六地藏十三佛南無阿弥陀佛等之石佛のこらず倒し薦ニて包」み路傍に放置された。仏教にかかわりのあるものはすべて破壊し、廃棄すべしという苗木藩庁の命令は絶対であった。しかし、村内の多くの石造物が破壊された中でこの塔は無傷で残り、後年、心ある人々によって現在地に再建された。
この塔は、元来笠付きであったと推定されるが、笠は現在見当たらない。
廃仏毀釈の施策が徹底したにもかかわらず、その史料に乏しい東白川村にとって、数少ない歴史の証明物である。
歴史の年輪を語るこの塔は、他の石仏と共に廃仏毀釈の洗礼を受けた。蔵多日記によれば「茶菴堂の道西方ニ建置ありし六地藏十三佛南無阿弥陀佛等之石佛のこらず倒し薦ニて包」み路傍に放置された。仏教にかかわりのあるものはすべて破壊し、廃棄すべしという苗木藩庁の命令は絶対であった。しかし、村内の多くの石造物が破壊された中でこの塔は無傷で残り、後年、心ある人々によって現在地に再建された。
この塔は、元来笠付きであったと推定されるが、笠は現在見当たらない。
廃仏毀釈の施策が徹底したにもかかわらず、その史料に乏しい東白川村にとって、数少ない歴史の証明物である。
十三仏とは
十三仏とは、死者の追善の法事を修する初七日から33回忌までの13回の供養に、本尊として配された十三の仏菩薩をいう。
その起源についてはさまざまな説があるが、「日本石仏事典」第2版(庚申懇話会編)によれば、「地蔵十王経」による十王の本地仏である十仏を基本に三仏を加え、十三仏が成立したという説が有力だとし、それは南北朝時代で、死者の追善を行う忌日の思想が一般化した時代だという。貴族の社会ではそれより早く、平安時代の承安元年(1171)ごろすでにこの仏事の兆しが現われているようだ。
その起源についてはさまざまな説があるが、「日本石仏事典」第2版(庚申懇話会編)によれば、「地蔵十王経」による十王の本地仏である十仏を基本に三仏を加え、十三仏が成立したという説が有力だとし、それは南北朝時代で、死者の追善を行う忌日の思想が一般化した時代だという。貴族の社会ではそれより早く、平安時代の承安元年(1171)ごろすでにこの仏事の兆しが現われているようだ。
十王 | 本地仏 | 忌日 | 予修日 | |
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01 | 秦広王 | 不動明王 | 初七日(しょなぬか) | 01月16日 |
02 | 初江王 | 釈迦如来 | 二七日(ふたなぬか) | 02月29日 |
03 | 宋帝王 | 文殊菩薩 | 三七日 | 03月25日 |
04 | 伍官王 | 普賢菩薩 | 四七日 | 04月10日 |
05 | 閻魔王 | 地蔵菩薩 | 五七日 | 05月23日 |
06 | 変成王 | 弥勒菩薩 | 六七日 | 06月05日 |
07 | 泰山府君 | 薬師如来 | 七七日 | 07月08日 |
08 | 平等王 | 観音菩薩 | 百ヵ日 | 08月18日 |
09 | 都市王 | 勢至菩薩 | 一年 | 09月23日 |
10 | 五道転輪 | 阿弥陀如来 | 三年 | 10月15日 |
11 | 阿閦如来 | 七年 | 11月15日 | |
12 | 大日如来 | 十三年 | 11月28日 | |
13 | 虚空蔵菩薩 | 三十三年 | 12月13日 |